奈良県史の断面も 田川和幸さん弁護士30年の回顧録「小さな歴史家をめざして」刊行
奈良県内の事件を中心に、足で証拠を集めた30年間の弁護活動を若い法曹に伝えようと、弁護士の田川和幸さん(80)=奈良弁護士会所属=が回顧録「小さな歴史家をめざして~私の弁護士時代」を執筆、日本評論社から刊行された。土地収用問題や薬害の奈良スモン訴訟、ごみ処分場の公害調停など、1970年代の県史の断面が克明に浮かび上がる。
考古学者が土器や遺構を手掛かりに過去の事実を明らかにするように、弁護士は丹念に証拠を集め、過去の事実を明らかにする―。田川さんは仕事の性格をこのようにとらえ、常々「弁護士は小さな歴史家」と司法修習生らに言ってきた。
本書には、丹念に調査をする田川さんの足取りが随所に出てくる。71年、吉野郡のある村で3000万円を超える使途不明金が発覚し、収入役が横領の容疑で起訴された。使途の一部について、橋の建設などに便宜を図ってもらった謝礼として県職員3人に5万円から10万円を渡したと収入役は供述し、3人は収賄の容疑で起訴された。3人とも事実無根だと訴えていた。
このとき田川さんは、収入役の供述の信ぴょう性に焦点を置いた。金銭を渡したとする日時の服装が本当だったのか、奈良地方気象台の地上気象観測日原簿の写しを取り寄せて検証した。また、収入役の供述調書に出てくる新幹線車内での現金授受の場面を再現する実験を行い、供述の不自然さが明瞭となった。二審の大阪高裁は3人に逆転無罪の判決を言い渡し、検察官は上告しなかった。
68年には、奈良県住宅供給公社が橿原市内で宅地開発した際の土地収用をめぐり、農業者らの異議申し立てに田川さんは熱心に耳を傾けた。当時は34歳で、土地収用について知識も経験もなかったというが、共同代理人を務めた大阪のベテラン弁護士に「土地調書の信用性を徹底的に争え」と闘い方を教わったという。調べてみると、土地の現況と一致しないずさんな記録を見つけ、調書の信用性を一気に覆していく。和解による解決に至り、公社側は開発の範囲を狭くし、兼業農家に農地を残すなど、多くの点で妥協した。旧地主と旧小作人が一緒に運動した出来事だった。
田川さんは神戸市生まれ。当人をよく知る人は「民衆の法律家」と呼ぶ。東京大学在学中から、聴覚障害者が集う家に出入りし、法律相談活動に参加していた。62年に弁護士となり、大阪弁護士会に入会。75年、奈良弁護士会に登録替えした。その少し前、保守候補が独走していた奈良市長選で、支持する社会党が誰も候補を擁立しないことに業を煮やし、自ら出馬、落選した経験がある。
本書で取り上げたのは、判事に任ぜられる93年までに担当した約20の事件。79年に起きた傷害致死事件では、大量の飲酒で重症酩酊(めいてい)に陥り妻を殴って死なせた男性を弁護した。犯行後、自宅のポストを調べると、大阪の飲み屋街から山のような請求書が来ていた。これを手掛かりに田川さんは一軒一軒の店で、聞き取り調査をしていくうちに、家庭の中で被告は底知れぬ悩みを抱いていたことを知る。奈良地裁は心神耗弱を認め、執行猶予が付いた。保釈後、被告は元の職場に復帰することができた。
薬害と同時に医原病(治療が原因の病気)の性格を持つスモン患者らが「奈良県スモン会議」を結成したのは71年のこと。集団訴訟に発展し、池田良之助弁護士を団長に、奈良スモン弁護団ができ、田川さんは事務担当を引き受けた。県立医科大学の有岡巌教授の参加を得て、重症被害者を集団検診し、日常生活の困難さなどを立証。79年、厚生省(当時)において、厚生大臣、製薬メーカー側と和解したが、国とメーカーと患者が賠償内容を記した確認書に基づいて和解したのは全国初のことだった。
田川さんは本書の執筆に半年を掛けた。「論理性と人情話が一緒になったような本になりました。最近の若手弁護士は判例を重視することに傾き、証拠の収集にあまり熱心でない人が増えていないか気掛かりです。若い法曹に読んでもらえたら」と話している。
223ページ。本体2500円。