奈良市三条町に古い赤れんがの構造物の一部が残っているが、明治時代の一時期、その土地は、「畿内遷都論」を書き、私費で橋を架けた幕末生まれの名物市議、吉村長慶(1863―1942年)の所有だったことが、奈良地方法務局の旧土地台帳で分かった。
旧土地台帳によると、1907(明治40)年、「薬師堂町 吉村長慶」の名で土地を所有していた記録が残る。しかし長慶はすぐに手放しており、所有者はその後、昭和14年まで目まぐるしく変わっている。
同市鳴川町の徳融寺には、長慶の彫像が残り、阿波谷俊宏長老は「それは初めて聞きました。吉村家は代々、薬師堂町で質屋さんを営んでいましたよ」と話す。長慶の一代記は安達正興氏の著作に詳しく、実業家としての一面もうかがえる。
郷土史家の藤田久光さんが2010年に刊行した「南都の観光資料Ⅰ」によると、長慶は29歳で「世界平和論」を提唱し、各国の元首に世界平和を訴える手紙を出した熱血漢。「日本初の平和運動家」と藤田さんは評価する。
赤れんがの構造物の建築年代は不明で、現在は民間駐車場の塀の一部になっている。敷地は758平方メートル。市内にある戦前の赤れんが建物は、奈良少年刑務所、奈良市水道局旧計量器室、旧陸軍省糧秣(りょうまつ)庫など、残り少なくなった。