奈良市和楽園80年、寄付と奉仕が設立起源
県内第1号の公的老人ホーム
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1935(昭和10)年、奈良市養老舎の開設3年後に運営者らを撮影した写真=和楽園75周年記念誌から |
奈良市古市町の老人ホーム奈良市和楽園が本年10月で80周年を迎えるが、施設の前身で、同市紀寺町にあった奈良市養老舎が発足した背景には、私有地の無償提供や寄付金、民生委員(当時、方面委員)の奉仕の力によるところが大きかったことが、研究者の論文などで分かった。現代にも通じる寄付とボランティアの精神が、草創期の福祉事業を推進する役割を果たしたといえそうだ。
旧救護法などの下、和楽園は県内第1号の公的老人ホームとされる。その用地は「市民の好意により提供された」と公表されているが、それは誰なのか、記者が人名を探していたところ、研究者の山本啓太郎さん(現、大阪体育大学教授)が奈良文化女子短大の論文集(紀要)に15年前に書いた論文「奈良県社会福祉史研究(3)―奈良市養老舎の創設を中心に」に出ていた。
これによると、1932(昭和7)年、土地を提供したのは当時、実業界の有力者とされた木本源吉だった。木本は明治時代の一時期、奈良市長を務めたこともある。山本さんの論文が引用した同年3月30日付の大阪朝日新聞によると、「元奈良市長の木本が寄贈した、奈良市紀寺町字下五反田の316坪を敷地として養老舎建設を決定」とある。
施設は、昭和恐慌の下で貧困と孤立に苦しみ衰弱した老人の救済を目指し、設立と運営には、奈良県方面委員奈良支部会(現、民生委員)が奔走した。和楽園の75周年の記念誌には、当時、「3500円、篤志家の寄付を仰ぐ」の記載があり、現代に換算すると1000万円から2000万円に相当するとみられる寄付が市民から集まり、施設の建設事業などに充てられた。
しかし、施設に対する無理解もかなりあったことが、山本さんが集めた論文の資料からうかがえる。県方面委員総会は、一度は開設を否決し、「養老院のごときは我国の美風たる隣保相扶の観念を損し家族制度の民俗を汚す」などの反対意見が出た。また、「早く養老院を建てたいのですが理解のない人たちに嫌われ、計画して3年にもなりますがまだ出来上がりません」という民生委員の切実な肉声が残る。
厳しい船出をしたが、和楽園が1954年、対外的にまとめた沿革には、「民生委員の経営なるがゆえに官僚的なきらいなく」という誇らしげなくだりがあり、和気あいあいとした雰囲気が自慢だったようだ。
同年、社会福祉法人と組織を改めて増改築し、71年、定員150人の養護老人ホームになり、98年には、市が設置主体となって現在地に移転し、特別養護老人ホームなどを新設した。08年度、市から敷地を購入、建物を譲り受け、民営化された。
和楽園の第9代理事長を務めた熊沢信さん(83)=元奈良市民生児童委員連合会副会長=は「草創期は文字通りゼロからのスタート。民生委員たちの努力は並大抵のものではなかったでしょう。現代も、民生委員、地区社協、自治会の三位一体が地域福祉の底力だと思うが、民生児童委員の活力がもっと増すようにするのも政治課題では」と話している。
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