奈良県)奈良市の旧銀行支店と旧都跡村役場、買収と破壊 ルールなき近代遺産の扱い
◇視点 昭和初期に建築された奈良市四条大路5丁目の近代遺産、旧都跡村役場(市有財産)が近く、惜しまれながら取り壊される。理由は、どこにでもあるような集会施設を市がそこに新築する、ということだけだ。県教委が文化財としての価値を認め、建築家の団体やまちづくり団体などが市に保存を求めたが、聞き入れられなかった。
一方、同役場より建築年代が7年新しい同市手貝町の旧銀行支店の建物(1940年)について市は2012年度、約7000万円をかけ、土地の買収(3674万円)と耐震などの修繕整備を行っている。
さらに同年5月、市は「近代建築物語~奈良・武雄の古館(こかん)追想」事業を打ち上げ、「近代遺産をはじめとする地域に埋もれた資源を再発掘する」と宣言していた。
こうした流れを見ていくと、市の近代遺産の保存と活用は、統一的なルールや原則で動いているわけではない。従って旧都跡村役場を進んで破壊するだけの合理性は乏しいのではないかと思えてくる。
元銀行建物は、東大寺転害門の北隣に立地し、設計者は県立畝傍高校(登録有形文化財)などを手掛けた岩崎平太郎。外観は町家の雰囲気が漂うが、室内は銀行らしいモダンな吹き抜け空間がある。市の整備により昨年5月、観光案内施設としてよみがえった。ボランティアの市民が案内役を務めている。辺り一帯は「きたまち」と呼ばれ、生活景観を誇る独特な土地であり、近代遺産の保存と活用の実践例になっている。
ただし、当初から市にこうした計画があったわけではない。地元の手貝自治会は00年6月、転害門の周辺において、講演会などができる文化施設の新築を市に陳情していた。当時の大川靖則市長は、具体的な事業計画を持たないまま、翌01年度、元銀行建物が立つ民有地197平方メートルを旧市土地開発公社に買収させていた。漫然と公社保有の塩漬け状態が続き、土地代金の借入金利子の長期支払いなどの債務が発生していた。建物は、所有していた個人が市に寄付した。
その後、建物の設計者が著名な建築家であることから、取り壊し中止の要望が地元周辺から出ていた。文化施設を新築する計画については、旧銀行建物の隣接地で予定していた用地の取得が難航するなどして、頓挫した。
その経緯をたどっていくと、旧都跡村役場の取り壊しにおいても、地元の都跡地区自治連合会が市に対し「集会施設を新築してほしい」と陳情したことから始まったことを思い起こさせる。旧銀行建物がたどってきた道のりと似た側面がある。一体どのような力学によって、破壊か保存かが決まるのか。近代遺産を保全する基準は市になく、一般の住民にはさっぱり分からない世界だ。
旧都跡村役場は、古都奈良において固有の建築史を刻む木造の近代和風建物である。往年の棟梁の技術が光り、壊せば永久に再現できない。月並みな集会施設の新築と引き換えに、失う価値はあまりに大きい。自治連合会の決定に十分な合意の形成や熟議はあったのか、疑問が残る。
市がこれまでに取得し、市有財産として管理している近代遺産は、旧JR奈良駅舎や旧鍋屋交番などがある。くだんの旧銀行建物も含め、旧市内のものばかりだ。これに対し、旧村に当たる市の中西部や西部では、築80年を過ぎた旧都跡村役場のような建物は希少な歴史文化遺産と言っても過言ではない。
市の教育委員会、市議会の議論は何もなかった。建物は単なる産業廃棄物として処分されてしまう。