【視点】亡父の旧大阪外語学籍簿、次男請求も不開示 退学理由、治安維持法による処分か調べる過程で
戦前の大阪外国語学校の校舎(「戦前大阪外語社研研究会会報」から)
戦前の思想統制下で弾圧を受けた亡父の足跡を調べるため、奈良県生駒市に住む大阪府立大学名誉教授(応用物理学)の溝川悠介さん(75)が、父が退学になった旧大阪外国語学校を継承する大阪大学保管の学籍簿を開示請求したところ不開示の決定を受けた。
父良治さんは1909年生まれ。28年、大阪外国語学校独語部に入学し、社会主義の学習会に参加していた。この年は治安維持法に死刑の条文が加わり、以後、戦争遂行の体制下において、さまざまな学術、文化の団体が否定され、エスペラント運動のグループや人形劇団に至るまで官憲の摘発を受けた。
父の退学は、治安維持法による処分だったのか、また、そうであるなら当人の名誉は回復できないものかと溝川さんは考え、昨年2月、独立行政法人等情報公開法に基づき阪大に学籍簿を開示請求した。
大学側は個人情報に該当するとして不開示にした。併せて請求した教授会の記録は「戦災で消失した」との説明を受けた。溝川さんは学籍簿の不開示を不服として、国の情報公開・個人情報保護審査会に対し阪大の決定の取り消すよう申し出、弁護士ら3委員が審査し、同年11月、不開示を容認する決定をした。
学籍簿に載っている情報は、住所、氏名、生年月日、出身中学、入学および卒業年月日、学業成績などである。
一方、溝川さんは先月、情報公開法の請求とは別に、大学事務の窓口に亡父の成績証明書を申請し、こちらは交付を受けることができた。交付の条件として、子供であることを証明するため戸籍謄本と申請者本人確認のための住民票および運転免許証の写しを提出した。
その内容は、住所と出身中学名を除いては、不開示の学籍簿の内容と同じであることが分かった。
ほぼ同一内容の文書であっても、学籍簿は何人も開示請求できるが不開示となり、成績証明書は親族に限り開かれているといえる。
溝川さんは「憲法21条の表現の自由の保障から、親の情報を子供が知る権利として故人である肉親の学籍簿を例外的に開示できないのか」とする。
学籍情報が入手できなかった体験は記者にもある。大阪府大東市ゆかりの彫刻家の浅野孟府(1900~84年)の評伝を書くため、出身校とされる東京府立工芸学校(現・都立工芸高校)に在学していた情報を3年ほど前、都の教育委員会に開示請求したところ、個人情報を理由に不開示となった。
これが情報公開法施行の2001年より前であれば、事情は異なってくる。彫刻家孟府は旧東京美術学校(現・東京芸術大学)を除籍になっていたことが、1990年代に美術館の学芸員が書いた論文に出ている。執筆者の話では、当時、東京芸大は卒業生名簿を刊行し、容易に閲覧できた。
小説家の大岡昇平と孟府らが1938年、創刊した同人誌の表紙を描いた洋画家・鳥海青児の旧制中学(現・藤嶺学園藤沢中・高校)時代の成績表は、70年代に刊行された「鳥海青児の芸術」という本に載っている。
良治さんが入学した大阪外国語学校(後の大阪外国語大学)は大正時代、海運業で財を成した大阪の実業家の寄付により大阪市天王寺区上本町に開校。この時代に村山知義、浅野孟府ら新興美術運動の旗手が躍り出てくるが、世相は次第に暗転し、社会主義に関心を持った村山、孟府ら芸術家、演劇人たちが次々と収監された。
良治さんは京都生まれの大阪育ち。日記や自叙伝などは一切残していない。「自分史を書くと、必ず虚飾が入る」と語り、1985年に他界するまで沈黙を貫いた。
首のところに直径5センチほどのまん丸い火傷の跡がくっきりと残っていた。溝川さんが小学生のとき、上級生が「お前の親父は丸はげ」と両手指で丸い輪をつくり、からかわれたそうだ。そのころ、父母が珍しく歌舞伎の鑑賞に出掛けようとしたとき、玄関で見送った溝川さんが「首のはげをショールで隠したら」と言うと、父はいつになく声を荒げて怒ったとう。収監されたときに拷問で受けた傷だったのだと溝川さんは確信する。
不明なことばかりだった良治さんの足跡が5年ほど前から少しずつ分かるようになってきた。きっかけは「治安維持法国家賠償同盟奈良県本部」(田辺実会長)の資料提供を得たことに始まる。溝川さんは、奈良教育大学付属図書館が保有する特高(特別高等警察)の内部資料「特高月報」全巻を調べた。亡父は少なくとも4回検挙され、入学後わずか1年で諭旨退学になっていたことを知った。
「特高月報」によると良治さんは1931年4月、大阪市内の工場地帯でメーデー参加を呼び掛けるビラを配り、非合法だった共産党の大阪市委員会の署名が入っていたことから逮捕された。逮捕者10人のなかに、岡田政次郎なる25歳の青年がいた。草野心平創刊の詩誌「銅鑼(どら)」の同人、原理充雄(本名、岡田政治郎)であり、収監先の大阪刑務所で肺病になり、1年後に出所してすぐ死んだ。
溝川さんは昨年12月、得られた情報の断片をつなぎ「戦前大阪外語社研研究会会報」(代表、成瀬龍夫・元滋賀大学長)創刊号に父の足跡を寄稿した。この中で「父の学籍情報が不開示になったのは残念。これからも父の足跡を調べ、二度とあの忌まわしい軍国主義の時代に戻らせない流れを大きくしていく一助となれば」と決意を新たにしている。
大阪大学(2007年、大阪外国語大学と統合)の総務課は記者の取材に対し、「学籍簿の保存年限は設けていない」とし、永年保存文書に該当する。不開示決定の異議申し立てを退けた総務省情報公開・個人情報保護審査会事務局は「法定の秘密会であり、審議の過程は公開しない」と話している。