旧街道の道標再び姿現す 大和郡山、保管先の元旅館取り壊しで
再び姿を現した道標(左手前)。奥はかつての竜田越大坂街道方面=2022年7月18日、奈良県大和郡山市柳5丁目
奈良県大和郡山市柳5丁目の市道交差点にこのほど、古びた道標がお目見えした。交差点は、かつての下街道と竜田越大坂街道の分岐点に当たり、道標はもともと同所に立っていたもの。しかし、いつしか姿を消していた。道標はこの間、交差点角で営業していた旅館の庭に設置されていたが、旅館の取り壊しとこれに合わせて行われた道路拡張工事に伴い、元の場所に戻された。今後、旧街道をしのぶ歴史遺産として親しまれそう。
道標の正面。「右 ほうりうしたゑま」「左 はせよしのかうや」とある=2022年7月18日、奈良県大和郡山市柳5丁目(照明の角度を変えて撮影した複数の写真を合成)
道標の左側面。「右 京ならミち」とある=2022年7月18日、奈良県大和郡山市柳5丁目(照明の角度を変えて撮影した複数の写真を合成)
交差点は東西、南北の道路が交わる十字路で、同所から南に向かう道路が下街道、西に向かう道路が竜田越大坂街道に当たる。市管理課によると、市は昨年3月、旅館の取り壊しに合わせて旅館前の歩道を拡張。道標を保管していた旅館の所有者から「元の場所に」という希望があり、その歩道の一角に設置した。
記者が現地で確認したところ、道標は石製で四角柱型。高さ約80センチ、幅約22センチ、奥行き約20センチ。交差点の南西角付近に、正面を北に向けて立つ。刻まれた文字は、石の表面が劣化するなどして読みにくくなっているものの、正面のほか左右の側面に各方面の地名が崩し字で記されている。
記者が道標の写真を撮影して県文化財保存課に見てもらったところ、北面となる正面には左右2列にわたって「右 ほうりうしたゑま」「左 はせよしのかうや」、そしてその下に「道」。西面となる右側面には「左 京ならミち」、東面となる左側面には「右 京ならミち」と記されていた。「ほうりうしたゑま」は法隆寺、當麻、「はせよしのかうや」は長谷、吉野、高野、「京なら」は京都、奈良のことという。
記されている文字の読み方などについて当初は市管理課に尋ねた。道標を設置する際、その向きを決めるために文字の解読が必要だったと考えられるが、同課は「当時の道路工事の書類を確認したが分からなかった」と話した。
また、大和郡山市内の道標を調査した1982年発行の関西地理学研究会誌「パイオニア第21号『大和の道しるべ(八)大和郡山市(米田藤博著)』」には、柳5丁目の両街道の分岐点に道標があったが、その道標は交差点角の旅館に存在する、との記述がある。
道標(手前)と下街道と竜田越大坂街道の分岐点に当たる交差点=2022年7月5日、奈良県大和郡山市柳5丁目
市発行の「ふるさと大和郡山歴史事典」(1987年)などによると、下街道は大和と紀伊を結ぶ古道で高野街道とも呼ばれた。竜田越大坂街道は大和と河内を結ぶ古道で奈良街道とも呼ばれた。同交差点付近は、郡山城下を囲んでいた外堀の南端に当たり、道標の前には城下への入り口となる柳町大門が設置され、厳重な警備体制を敷いて、外来者らに注意を払っていたという。当時は交通の要衝だった。
道標の建立時期は不明だが、「大和の道しるべ」によると、調査した市内の道標のうち建立年が記された道標は、江戸時代後半から大正時代にかけてのものだった。
道標が保管されていた花内屋。取り壊される前の姿=「城下町大和郡山歴史的建造物調査報告書」(2016年3月、県建築士会郡山支部大和郡山建物探訪部会発行)から
道標を保管していた旅館は、花内屋という古い旅館。市観光協会の城下町散策マップによると、江戸時代から続いた旅館という。旅館の所有者によると、道標は建立当初、旅館の前に立っていたが、火災による建物の再建や道路拡張などがあって、旅館敷地内の庭に移されることになったという。旅館は1980年ごろまで営業していた。
所有者は「市が道路(歩道)を拡張するというので、それならば道標を元の所に戻してほしい思い、道路に出してもらった」と話している。
市管理課は「城下町なので歴史的なものは元の位置に置いておくのが良いと判断した」と話している。
取り壊された旅館は伝統的な町家風の建物で、県建築士会郡山支部が市内城下町に残る歴史的建造物の一つに数えていた。所有者によると、明治に建てた建物が火災に遭っていて、現在まで立っていたのは昭和初期のものだったという。旅館跡地はコインパーキングになっている。