コラム)赤木俊夫さんを忘れない/政治と憲法の風景・川上文雄…3
筆者のアートコレクションから石井誠「花」。作者は、先天性筋ジストロフィーをわずらいながら創作活動を続けた。2014年、32歳で逝去
日本国憲法第19条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
財務省の職員・赤木俊夫さんは、森友学園への国有地払い下げに関する公文書(決済文書)の改ざんに加担させられたことを後悔し、強度のうつ状態のなか2018年3月みずから命を絶った。死の直前、赤木さんは身の上に起こった経緯を手記に書き残していた。絶望のなかにあっても国民への説明責任をはたそうとした。公務員の良心に殉じた赤木さん。憲法第19条をとりあげながら追悼する。7月15日には真相解明を求めて妻の雅子さんが起こした民事裁判の第1回口頭弁論が開かれた。赤木さんの手記に私たちはどう応えたらいいのか。
赤木さんの手記は大阪日日新聞記者で元NHK記者の相澤冬樹氏が書いた「週刊文春」の記事で読むことができる(インターネット上で無料公開中)。
公務員の「良心」の危機
赤木さんは常々「国民が雇い主、国民と契約した」と言っていた。その「契約(国民との約束)」の内容は、憲法のいくつかの条項と重なっていたのではないか。「公務員は全体の奉仕者」(憲法第15条2項より)。「国民の生命、自由および幸福追求の権利は最大の尊重を必要とする」(第13条より)。それらを順守することが、赤木さんにとって公務員の良心の証しだったと言えそうだ。(赤木さんだけでなく、すべての公務員にとってそうあってほしい)。
良心とはなにか。辞書によると「何が自分にとって善であり悪であるかを知らせ、善を命じて悪をしりぞける…道徳意識」である(「広辞苑」第2版補訂版)。たった今言及した憲法の2つの条文は、赤木さんにとっての「善」ということになる。
決済文書の改ざんは悪として拒否されるべきもの。赤木さんは初めからそれが犯罪であることを自覚して、改ざんへの反対を上司に伝えていた。それは、収賄罪とは別の次元での悪だ。つまり公務員個人が私腹を肥やすという意味での悪ではなく、政治・行政の根本を破壊するという深刻な悪であり、政治権力の行使の適否を国会などで検証することを妨害する重大犯罪だ。(情報の隠蔽〈いんぺい〉・廃棄は犯罪でない場合でも検証を妨害する悪質な行為。現政権のもと、そのようなことが続けざまに発生している)。しかも、決裁文書の改ざんをさせられるどころか、赤木さん一人に「仕事」が押しつけられ、次第に追い詰められていった。
赤木さんが直面したのは、憲法第19条に規定された「良心の自由」の危機、公務員としての「良心の自由」に関わる危機だった。公務員の良心に照らしてやってはならない行為を強要されない自由、絶対にやりたくないことをやらされない自由だった。
憲法19条、人としての尊厳守る
憲法第19条は「良心の自由」を保障する。この自由には、憲法が保障する他の自由権(表現の自由、職業選択の自由など)と根本的に違うところがある。他の自由権は、自分の自由な意思でおこなったことについて、その自由を保障する。通常私たちが思い浮かべる自由はそれだ。「やりたいことをやる自由」である。これに対して、第19条は防衛的な自由を保障する。つまり、なにかをやらせようという外部の圧力(たとえば政治権力)が働いたときに「やらない」自由、「やらせようとしないでほしい」と主張する自由を保障する。
この「良心の自由」は「自分が大切にしている思想・信条をまげたくない」という切実な思いに根ざすものである。つまり、人間が人間らしく自由に生きるための根元の自由を規定するものである。なぜ第19条は、自由権の具体的条文として「表現の自由」などとともに列挙するさい冒頭に置かれているのか、その理由はそこにある。いろいろな自由の侵害のなかでも、「良心の自由」の侵害ほど人間としての尊厳を傷つける重大で深刻な行為はない。個人の精神を深く傷つけるからだ。そこに条文が「侵してはならない」という強い禁止の表現を使っている理由がある。改ざんを主導して後に出世した人は「すべて国民は、個人として尊重される」(第13条)など、まったく無視した人のようである。
手記残し説明責任果たす
そうこうしているうちに、赤木さんは戻れない地点まで行ってしまう。検察捜査の進展。逮捕の不安と恐怖が募る。失われるのは公務員として国民のために仕事をしているという充実感。書道をはじめ多彩な趣味の世界を楽しんできた生活。もうこの世の中に自分の居場所はないという喪失感と絶望。強度のうつ状態に陥った。
決裁文書改ざんの強要は、赤木さんの幸福追求を踏みにじり、精神を崩壊寸前の状態にいたらしめた暴力的で残忍な行為だ。しかし、赤木さんは絶望したまま逝ってしまったのではない。出来事の経緯を手記に書き残した。
公務員としての良心を貫けなかったという後悔があった赤木さんは、手記を書くことで「国民への謝罪」(赤木雅子さんの言葉)をすると同時に、公務員としての良心を救おうとした。手記は公務員として国民への説明責任を果す行為だった。火災のなかから人命を救おうとして命を落とした消防士に似ているかもしれない。手記の末尾には「事実を、公的な場所でしっかりと説明することができません。今の健康状態と体力ではこの方法をとるしかありませんでした」とある。読めば「しっかりと説明」しているとわかる。
私たちは赤木さんのような死者が出ることのない社会に向かっていけるのか。赤木さんは特異な事例ではない。ほかの職場でも「良識で判断したらやってはならないことをやらされる」という事例は生じている。赤木さんを死に至らしめた政治・行政の質を変えるために、何をしたらよいのか。赤木さんの手記を読む、新聞やテレビ(とくにNHK)で裁判がどのように取り上げられているか報道の姿勢を注視する。ほかにもありそうだ。(おおむね月2回更新予定)
かわかみ・ふみお=客員コラムニスト、元奈良教育大学教員