コラム)オリンピックのためのゴールデン・ルール/政治と憲法の風景・川上文雄…15
筆者の自宅、玄関さきのアマリリス。この鉢で10年以上咲き続けている。6月上旬に撮影
ゴールデン・ルールとは、多くの宗教・哲学で見いだされる「他人からしてもらいたいと望むことを、他人にもしなさい」という命題のことです。キリスト教なら「新約聖書」にイエスの言葉として記されています。類似の表現は孔子「論語」にも。では、コロナ時代にふさわしいゴールデン・ルール―力をあわせて困難を克服するための命題―を考えるとしたら、何になるか。「だれもがある程度負担し、だれにも過剰な負担をさせない」はどうでしょう。
命題の後半部分「だれにも過剰な負担をさせない」に焦点をあわせながら、コロナ禍のなかの東京オリンピック・パラリンピック(以下、東京オリパラ)について考えます。
大多数の国民、過剰負担を心配
医療従事者のなかに過労死ラインを超える労働時間で働いている人たちがいる。以前、ニュースになりました。これほどでなくても、医療現場で働く人たちの「過剰負担」は明らかです。(その他の分野の人たちの「過剰負担」は察してください)。東京オリパラ開催によって過剰負担が増加すること、減らないことが強く心配される。
そう考えている国民が大多数である。最近の世論調査から読み取ることができます。読売新聞が実施した世論調査(6月4~6日実施)のうち、東京オリパラに関する質問は次の通りでした。「今年夏の東京オリンピック・パラリンピックは、どうするのがよいと思いますか。次の3つの中から、1つ選んで下さい」。 選択肢ごとの結果は(1)観客数を制限して開催する24%(前回調査より8ポイント増)(2)観客を入れずに開催する26%(3ポイント増)(3)中止する48%(11ポイント減)。
3つの選択肢への回答は、筆者にはすべて「過剰負担が心配」と読めてしまいます。読売の調査が質問の選択肢に「通常通り開催すべきだ」を入れなかったのは不可解ですが、3つの選択肢の合計が98%だから、残りの2%がそれだったのでしょう。結果をどう読むか。「(読売調査)開催か中止か、世論が二分された」というツイートがあったけれど、筆者の読みは「一致して通常開催に反対」となる。また、「開催への理解が深まった」でもない。深まっていない。前回の調査と基本的な変化がないと読みます。
バッハ会長、心配せず
東京オリパラに最終責任をもつ組織のトップには「過剰な負担」を真剣に心配しているか疑わしい発言をする人たちがいます。国際オリンピック委員会・バッハ会長はその1人です。
「五輪の夢を実現するために誰もがいくらかの犠牲を払わないといけない。アスリートは間違いなく彼らの五輪の夢を実現することができます」(5月22日国際ホッケー連盟のオンライン総会での声明)。
組織の長であるバッハ氏からは「だれにも過剰な負担をさせない」という言葉を聞きたいところです。しかし、発言全体のなかにその語句はなかった。医療従事者など、東京大会開催前、すでに過剰な負担を強いられた人々がいることに気づかずにいる、あるいは過剰な負担を過剰な負担と思わない、過剰な負担でも「ある程度」でくくられてしまうのか。「だれもがある程度負担する(犠牲を払う)」というのは「だれにも過剰な負担をさせない」と組み合わせなければ、危険です。
科学的説明なし
だれにも過剰な負担をさせない。東京オリパラ政策を導く基本原則として、内閣総理大臣の口からも聞きたい言葉です。「過剰な」とは、どの程度なのか、たしかにあいまいなところがあります。しかし「定義はない」などといって無視するのではなく、みずからすすんで「過剰」について具体的事例を示しながら定義して、効果のある具体的な対策の実行を国民に約束する。それをわかりやすい言葉、そして科学的に確かな言葉で説明しなければ、国民は納得(安心)しないでしょう。
ついに、尾身茂会長(政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会)も納得のいく説明を求めました。「パンデミックのなかで、開催は普通ありえない」という国会での発言。筆者は「ある程度の負担ですむような状況ではない、過剰負担が心配だ」という趣旨に解します。
巨大イベントのジレンマ
オリンピックは他のいかなるスポーツ競技とも比べようのない巨大イベント。コロナパンデミックの中で安全対策を講じることにはジレンマがあります。過剰と思われるほどの万全な安全対策が求められる。万全を求めると、仕事量が増える。「だれにも過剰な負担をさせない」がその分、困難になる。
それに加えて対策の不備で感染が広がれば、過剰負担(とくに医療現場、医療従事者)が生じるでしょう。医療はオリンピックだけではありません。巨大イベントはごく一部の不備でも悪影響は深刻です。「事故」の深刻さ、筆者は福島原発事故を連想してしまいます。
過剰負担の発生を予防するには以下のことが絶対条件ではないでしょうか。人流(交流)を極端に減らす→無観客(あるいはそれに近い観客数)、外国からのメディア人の極端な制限。大会役員の極端な制限(アスリートのパフォーマンスに関わるコーチ・トレーナーに限定)。選手の家族の数も。そのうえで、関係者の宿泊場所を極端に限定する。選手村。出入りを完全にチェックできる(IT機器を駆使する)。一般的な宿泊施設に泊まらせない。
以上「極端に」を連発しましたが、それらの対策の対象となる人たちに過剰な負担を強いるようなことにはならないでしょう。各自の生活や仕事全体から見れば、部分的な影響にとどまるものであり、「ある程度の負担」と言えます。そして、日本社会全体に過剰負担が生じないようにするものです。「アスリートファースト」は維持できています。
せめて、以上の条件に向かっての具体的な努力と説明が伝わってくれば。しかし、そうなっていない。開催した場合の結果は、やってみなければ分からない。政権がそのような「賭け」に出ていることこそ、不安・不信の原因になる。世論調査で「中止」と回答した人たちの思いを、筆者はそのように推察しました。巨大事故への備えがきわめて不十分なのは、福島原発のときと同じ。結果で判断しないでほしい。すでに無責任です。(おおむね月1回更新予定)
かわかみ・ふみお=客員コラムニスト、元奈良教育大学教員