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地域の身近な問題を掘り下げて取材しています

発行者/奈良県大和郡山市・浅野善一
ジャーナリスト浅野詠子

「信長に先駆けた名将」 天野・天理大准教授が三好長慶研究の成果を披露

 江戸初期、戦国の六名将と評価されながら、時代が下るにつれて忘れられていった畿内の覇者、三好長慶(1523~64年)の研究に天野忠幸・天理大学歴史文化学科准教授(日本中世史)が挑み、今月16日、「いまよみがえる三好長慶の世界」と題して講演(大阪府大東市立生涯学習センターアクロス主催)、参加した約100人の歴史ファンを魅了した。首都移転を断行し、政治と経済の都市機能を分離して多極的な国家をデザインした長慶の革新性が存分に語られた。

 天野准教授が三好長慶を研究テーマに選んだのは、大阪市立大学の大学院生だった2000年代の初めのこと。当時はこの武将を専門に研究する人はほとんどおらず、「辞めておくように」と心底の善意で断念することを勧める先輩学者もいたほど。今日に至るまでの間、天野准教授は長慶関連の著書を数冊出し、歴史学者・今谷明氏の著書「戦国三好一族」以来、数十年ぶりの成果といわれる。

 証拠となる古文書が乏しく、建設的な論争をする相手もいないという不利な状況のもと、近畿の寺院などが保有する文書の類いをくまなく調べるなど、時間をつぎ込んできた。長慶が居城とした飯盛城(大東市、四條畷市)は、安土城に先駆けた石垣や巨大な堀切などの遺構を誇るが、近年は歴史のスポットよりハイキングや自然観察の場として知られている。

 軍事面では、長篠の戦いより25年も早い天文19(1550)年、長慶は鉄砲を操った。そのころは非常に珍しい武器で、家臣たちが京都の清水寺の塀で試し打ちに興じたことから苦情が出て、長慶は「鉄砲の禁制」のお触れを出したという。

 足利将軍を京都から追放し、畿内を制圧しながら志半ばの四十三歳で病没した三好長慶。天野准教授は、200年の足利ブランド、家格というものに対抗した長慶の機知に富んだ戦略を高く評価している。いわゆる首都と位置付けられる城は、阿波の勝瑞や摂津の芥川など、柔軟に3回も移転し、飯盛城が最後の居城となった。経済の振興策として堺を重視したことから、旧来の城下町とは異なる分権的な構想を有していたことが天野准教授の研究から知ることができる。

多聞城主、松永久秀の人間像も一新

 悪役として伝わる家臣、松永久秀の忠臣ぶりも、柳生藩に伝わる古文書などから次第に判明してきた。天野准教授によると、家格秩序を越えて久秀を登用し、実子と同じ待遇にしていた。長慶の人事には注目すべきものがあるという。

 久秀の居城、多聞城(奈良市)は4階建てのやぐら、瓦ぶきなどに特徴を持つが、飯盛城と多聞城の長所を足して2で割ったような設計が安土城に見いだされるそうだ。

 天野准教授は「戦争ものでない戦国武将像をつくりたい」と話し、さらなる研究に意欲を燃やしている。

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