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拠点・奈良県大和郡山市 運営者・浅野善一

「青空まず見て」

行基広場生みの親、当時の鍵田市長

40年前、近鉄奈良駅の地下化で

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2010年9月19日
駅舎から望む現在の行基広場。見通しが良く開放感がある=奈良市の近鉄奈良駅前
県が当初に作成した大屋根のイメージ図(県提供)。広場なのに閉じた空間という印象
 県が具体化を決めた近鉄奈良駅前行基広場の大屋根。県はアンケートなどの結果から「理解を得られた」とするが、依然、景観上や必要性で疑問視する声も消えない。そもそも行基広場はどんな経緯で誕生したのか。調べてみると、原点は広場の生みの親であるかつての鍵田忠三郎・奈良市長(故人)の思いの中にあった。そこには地下駅という同駅特有の事情がある。
 「観光都市奈良である以上、まず、地下駅から降り、青空の見える広場に出て古都の空気と風情を味わってもらい、それからそれぞれの公園とか商店街とか、その目的地に行ってもらう、余裕のある観光都市の玄関にせねばならぬ」
 強い個性で知られた鍵田市長が近鉄奈良駅前に広場を必要とした理由である。「道を行じて 奈良市長十四年の歩み」(鍵田忠三郎、協同出版)や「みそ作り市長言行録 鍵田忠三郎・人とその思想」(現代思想社)に当時のことが詳しく紹介されている。
 同駅は約40年前の1969年、市街地で車と併走していた奈良線の地下化に伴って地上から地下に移された。翌70年、駅ビルが完成したが、当初の計画に行基広場はなく、そこはビルの一角となるはずだった。広場は現在、駅ビルの東にあり、さらにその東には東向商店街の通りがある。駅ビルは同商店街のアーケード通りに接する形で敷地いっぱいに建てられる計画だった。
 この駅ビル計画に対し、就任3年目だった鍵田市長は「奈良に来るお客さんが暗い地下駅に降り、すぐアーケードの下の商店街に入るのでは大阪などの大都市となんら変わらない」と反対。広場の設置を求めた。一連の駅前整備事業はすでに事業決定の手続きが済んでいたが、鍵田市長は国、県、近鉄と交渉。最終的に計画が変更され、駅ビルを西へ50メートル移動させることで、広場が実現した。市は近鉄から敷地の一部使用の承認を得て駅前広場として利用、その象徴として、奈良とかかわりの深い奈良時代の高僧、行基の像の噴水を設置した。
 県は大屋根推進の理由として、行基広場に雨よけ、日よけを設けることが市民にとっての利便性の向上、観光客へのもてなしにつながるとしている。一方、鍵田市長は今はやりの「もてなし」という言葉こそ使っていないが、地下駅を出てパッと目の前に広がる青空の提供が観光客へのもてなしと考えた。大屋根ができれば視界は遮られ、そうした環境も大きく影響を受ける。
 計画の再検討などを求めて活動している県民らのグループ「LOVE! NARA!(ラブ・ナラ)」(大八木恵子発起人代表、18人)は今月10日、担当の県道路・交通環境課を訪れ、「意識調査で、あったらいいかどうかだけを問うのは不十分。行基広場は市民の精神的場所でもあり、行基広場についてどう思うか、広場はどうあるべきか、から考えるべき」として再考を求めた。
 行基広場の原点も踏まえた論議が今一度、必要ではないか。(浅野善一)
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