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発行者/奈良県大和郡山市・浅野善一
フリージャーナリスト浅野詠子

奈良県)「浦上キリシタン事件、流配者と大和郡山藩」テーマに講演 長田さん全体像を語る

【視点】大和郡山市文化財審議会長・長田光男さん(90)の講演「浦上キリシタン事件~キリシタン流配者と大和郡山藩」が24日、奈良市鳴川町の徳融寺であった。寺が開く「おとなの寺子屋」の行事で、約100人の聴衆が聞き入った。

 江戸時代、子々孫々7代にわたり、隠れキリシタンとして信仰を保った長崎県浦上村民3046人を、明治政府が弾圧した浦上キリシタン事件。人々は明治2(1869)年に捕縛され、西日本の各藩に流罪となって改宗を迫られた。講演は、うち大和郡山藩に移送された86人の処遇や強制労働の実態など、現在まで判明している全体像について知る、またとない機会になった。

 長い鎖国を経て、開港に象徴される幕末の風景。しかし明治政府が掲げた「五傍の掲示」により、キリスト教は邪宗扱いされ、密告さえ奨励された。一方、大和郡山藩は浦上村民を「お客さまとして扱い、丁重にもてなした」と長田さん。

 長田さんによると、大和郡山藩(譜代)の柳沢の治世において、隠れキリシタンに対し寛容な態度を取っていた形跡がある。三代藩主となった柳沢保光は、河内の高僧、慈雲尊者を招いて説法を聞く場を設けた。その際、現在の大和郡山市小川町のかいわいに住んでいた隠れキリシタンの人々を呼んで、慈雲の話を聞かせたという。思いがけない出来事に感激し、彼らは「はらはらと涙を流した」と長田さんは解説した。

 江戸の後期に入ると、大和郡山藩にとって乗り気でない出来事がいくつか降り掛かってきたと、長田さんの講義は興味深く展開する。大塩平八郎の乱(1837年)のときは、幕府から敗走者の捕獲を命じられたが、藩主は、大塩の行動を理解している節があり、腰が重かったといわれる。また、天誅組の変(1863年)の際も、出陣を命じられたものの、下市(現・下市町)まで1週間もかかって到着。遠路の彦根藩の方が先に現地入りし、「おくれ藩」とやゆされたそうだ。天誅組の首謀者を単なる悪人とは見ていなかったらしい。

 現代の価値で単純に語ることはできないとしても、上からの命令に逡巡(しゅんじゅん)し、スローな行動をとった藩のさまは、どこか魅力的な存在に映る。

 話は浦上キリシタン事件に戻って、長田さんはこれまで、多くの資料を渉猟し、現地を歩き、聞き取りをしてきた。浦上村民は大阪まで船で運ばれ、生駒山を越えて大和郡山に移送されたが、縄で数珠つなぎの痛ましいさまだった。86人は最初、旧雲幻寺(現・良玄禅寺)に3カ月間、収容された。その後、4カ所の会所に分囚という形が取られていた。

 大和郡山藩は炊き出しを行い、潤沢な食糧を運ぶ。外出、入浴、アルバイトなども自由にさせていた。ところが2年後の明治4(1871)年、政府の役人、楠本正隆が当地を視察に訪れ、「あまりにも管理が甘い」と上官に報告した。国のおとがめを受けた大和郡山藩は、流刑者の処遇を改め、食事の質を落として、かゆにしてしまう。

 ほかにも奈良県内では、津藩の所領だった奈良市古市町に22人が移送されたが、処遇は最初から厳しく、極端な粗食に耐えかねて、人々は野草を摘んで食べていたという。野ネズミさえ食べた人がいるという話も伝わっている。

 明治5(1872)年、大和郡山、奈良市古市町に収容された若い男女25人は家族から引き離され、東大寺の近くにあった紙製造工房などで就労させられる。うち大仏殿裏の表具店で働かせていた青年が仕事で徳融寺を訪れたとき、赤子を抱いた子安観音立像(平安時代)と本堂で対面する。「マリア様に似ている」と感嘆した逸話は、同寺の阿波谷俊宏長老が掘り起こしている。

 浦上村民はなかなか改宗に応じなかった。ことに硬骨漢とみなされた3人は独房のような所に入れられた。強壮な男子は厳寒の鉱山に送られ、天川村の標高1200メートルの山中で銅の採掘や石炭の運搬などの強制労働をさせられた記録は、カトリック司祭・浦川和三郎著「切支丹の復活」に出てくるそうだ。

 西日本一帯で行われた非人道的な弾圧は国際的に非難を集め、明治政府は明治6(1873)年、キリシタン放還令を出し、ようやく信徒たちは帰郷した。

 「この段階では、まだ黙認という程度にすぎない。信教の自由が公然と認められるのは(事件から20年後の)大日本帝国憲法の発布を待たねばならなかった。明治初年のキリシタン弾圧は、政府の意図した神道国教化政策や近代的天皇制国家樹立への理念とかみ合わなかったことによるものでしょう」と長田さんは語った。

 浦上キリシタン事件の殉教者は612人。奈良県内に移送された浦上村民のうち5人が高齢や病気などで落命した。大和郡山市城南町のカトリック大和郡山教会には、事件の顛末(てんまつ)を刻んだ切支丹流配碑がある。忘れてはならない近代の遺産だ。

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