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発行者/奈良県大和郡山市・浅野善一
浅野善一

香芝の屯鶴峯地下壕、戦争の史跡を市民ら見学

屯鶴峯地下壕の中で説明を聞く参加者。参加者30人余りが全員入ることができる広い空間があった

屯鶴峯地下壕の中で説明を聞く参加者。参加者30人余りが全員入ることができる広い空間があった=2015年8月9日、香芝市穴虫

屯鶴峯地下壕の急勾配の小さな出入り口。外に森の緑が見える

屯鶴峯地下壕の急勾配の小さな出入り口。外に森の緑が見える=2015年8月9日、香芝市穴虫

 香芝市穴虫の山中に残る戦時中の軍事施設、屯鶴峯(どんづるぼう)地下壕(ごう)の見学会が9日あった。同地下壕は、日本の敗色が濃厚となった太平洋戦争末期、陸軍が本土決戦に備え、戦闘指令所として建設したものといわれる。市民ら30人余りが当時の痕跡をたどりながら、戦後70年を経て地下壕が持つ意味を考えた。

 見学会は地元の「NPO法人屯鶴峯地下壕を考える会」(楠本雅章理事長)の主催。同会は地下壕の保存を訴えるため、1993年から毎年、終戦の月に合わせ見学会を実施している。

 地下壕は奈良県と大阪府を分ける山の中にある。屯鶴峯(154メートル)は、凝灰岩が露出してできた奇勝で知られる。参加者は最寄りの近鉄関屋駅を出発、最後は綱を頼りに急な斜面を登った。地下壕は通路があみだくじのように巡らされ、総延長は2キロに及ぶ。入り口からの光は届かず、懐中電灯を頼りに進んだ。内部は気温が3、4度ほど低いといい、到着するまでにかいた汗は引いた。

 地下壕内は広々として、通路の幅は5メートル前後、天井の高さは3メートル前後にもなる。参加者全員が入ることができた広い空間で、小学校教員の田中正志さんが説明した。田中さんによると、地下壕の建設期間はわずか2カ月で、トンネル専門の部隊が300人の態勢で24時間掘り続けた。地質は凝灰岩で軟らかいが、中には硬い岩もあり、田中さんはその表面に刻まれた幾筋もの溝を懐中電灯で照らした。のみやつるはしの跡だといい、厳しかった作業がうかがえるとした。

 朝鮮人の「強制労働」があったことにも触れ、部隊員のうち100人以上は、徴兵された朝鮮人の若者だったとした。朝鮮人は、トロッコで土を運び出す最も重い労働を担ったという。

 地下壕は使われることなく終戦を迎えた。特攻部隊の指令基地にする予定だったのだろうとした。全国で地下壕の戦闘指令所は、屯鶴峯地下壕と長野県長野市の松代大本営地下壕の2カ所だけという。

 田中さんは、参加者に「地下壕からは、軍が本土決戦をやるつもりだったことが分かる。そうすれば奈良も戦場になっていた」「当時、朝鮮人は日本のどこにでもいた。建設したものはたくさんある」などと語り、見学会を通じて知ってもらいたいことだと訴えた。参加者は「残土はどこに運んだのか」などと質問していた。

 屯鶴峯地下壕は70年の間に風化が進んでいる。楠本理事長は「当時のことを知る人がいなくなり、戦争の史跡もなくなってしまう。残していきたい。見学会を通じて市民に訴えている」と話した。

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