探る)消えた万葉の故地・率川 なぜ下水道に 暗渠化推進、70年前の奈良市文書で確認
暗渠になった万葉の故地・率川。写真奥に向かって蛇行している。橋の名残、親柱4本(手前)が現存する=2020年8月11日、奈良市椿井町付近
率川の暗渠化に関係する「奈良市下水道計画書」(1951年)。下水道の推進を急ぐ記述がある
万葉集に詠まれ、奈良市元林院町や椿井町などの旧市街地「奈良町」を流れていた率川(いさかわ、約5キロ)は、なぜ下水道になったのか―。その理由を知ろうと記者は市情報公開条例に基づいて、市に関係文書の開示請求を行った。
戦後まもなく、下水道を「新文化施設」と位置づけ、推進を目指す70年前の文書が見つかった。川にふたをして暗渠(あんきょ)にしたのは、観光振興の一環であり、水洗便所の普及を急ぐ目的があったことが分かった。
奈良町の東方、御蓋山(春日山)に源を発し、奈良公園の猿沢池の近くを流れる率川は、享保年間ごろの「奈良町絵図」(天理大学図書館蔵)など、江戸期の地図に流路がくっきりと描かれている。
記者が市に開示請求したときの件名は、率川が暗渠になった経緯が分かる文書。市は「奈良市下水道計画説明書」(1951〈昭和26〉年認可にかかる文書)を開示した。市の職員が手書きで作成した文書だ。市は当初、該当する文書を特定するのは困難ではないかとしていたが、開示請求から2カ月ほどして市の企業局から見つけ出された。
太平洋戦争の敗戦から6年。この文書によると、当時、奈良市を訪れる観光客は数百万人に上っていた。上水道が年々普及拡張しているのに対し、下水道の総延長は9キロしかなかった。豪雨の浸水対策や衛生対策のほか「国際観光都市として水洗便所の施設が最も緊急時」と下水道事業推進の理由を記している。
文書の中に率川という文字はないが、下流の呼び名である菩提川の排水区に当たることが分かる。「小支川をコンクリート床板で覆う」と工事内容についての記述があり、「猿沢池付近より発して三条通りを西下し、関西本線奈良駅前に」という流路は、まさに率川のことを指している。
万葉集の巻の7にこうある。「はねかづら 今する妹を うら若み いざ率川の 音のさやけさ」(集英社文庫「萬葉集釋注」四、伊藤博著から)。近代奈良を代表する歌人、前川佐美雄は「いさいさかわ」と読み下し、「清流が『いさ率川』といいたくなるように、音をたてて流れていた」と著書「大和まほろばの記」で思いをはせている。
奈良市企業局の下水道担当者の話では、率川について書かれた文献は、奈良女子大学の教員をしていた帯谷博明さん(現・甲南大教授)が執筆した「消えた川の記憶―ならまち率川物語」が唯一ではないかという。2006、07年度に帯谷さんは同大学文学部の授業で学生とともにお年寄りらに聞き取り調査をした。ごみの不法投棄もあったが、魚とりや探検ごっこに子どもたちが興じる様子を生き生きと再現している。
わずかに残る率川の地表部に県がふたをする計画に、地元が反発して中止された出来事もあった。生活排水が流れ込んでいることなどから県は1999年、ふたをし、その上に人工の流路を設けて井戸水を流す工事を計画したが、地元の元林院町自治会が反発、全国紙の新聞記者だった神野武美さん(67)=奈良市在住=がいち早く報じ、計画は宙に浮いた。
まちづくり団体「奈良まちづくりセンター」では昨年、清水和彦理事が同会報で「率川の流れをたどる―暗渠となった万葉の川」をテーマに特集し、一部でも清流を取り戻せないか、失われた生活河川に思いを寄せた。
人々の思いはなかなか深い。1990年代の初め、率川の暗渠沿いの建物の建て替えに携わった大阪市北区の建築家稲村純さん(75)は「工事中に暗渠の周りから小ぶりな墓がかなり出てきて、坊さんを呼んで供養してもらった。旧水路の護岸に使われた無縁仏さんかと思ったが、確かなことは分からなかった。建て替えの施主さんの親族のご老人は『娘時代にスイカの種をペッと率川に吐き出した』と昨日のことのように回想していた」と話す。
率川は、下水道だけでなく、市の幹線道路、やすらぎの道など道路の一部にもなっている。開示された文書はA4判6枚。6枚目を最後に途切れ、残りの文書はどこにあるのか不明。市企業局の職員は「これ以上探すのは難しいように思います」と話している。 関連記事へ