川上村の94歳母親殺害で長男初公判 ダム地滑りの仮設住宅暮らし、事件の背景に
地滑りが起きた大滝ダム湖畔の川上村白屋(橋の向こうの樹木のない斜面)。家屋は取り壊され、土台の石垣だけが残っている=2015年8月22日
奈良県川上村でことし3月、高齢の母親=当時(94)=の首を絞めて殺害したとして、殺人の罪に問われた被告の長男(70)に対する裁判員裁判の初公判が25日、奈良地裁(柴田厚司裁判長)であった。公判では、母親が村内の大滝ダム(国土交通省)の試験湛水中に発生した地滑りに伴う仮設住宅の生活で精神が不安定になり、被告がその後、母親の言動などに疲れていたことが明らかにされた。事件の背後にダムの暗い影を見た。【本記の後に裁判傍聴記】
検察官などによると、母親は同村白屋の元住民で、1998年に夫が他界してから一人暮らしをしていた。普段は畑仕事のほか人工林の手入れも行っていた。
同ダムの試験湛水が始まった03年、母親が住んでいたダム湖畔の白屋で道路や家屋に亀裂が見つかり、母親ら37世帯77人は国が同村北和田の旧小学校敷地に建てた仮設住宅に避難した。
検察官は、吉野署が作成した母親の二女(64)で被告の妹の供述調書を読み上げた。母親は「畑仕事も山仕事もできない。何もすることがない」と嘆き、「さみしい」「死にたい」とも訴えていたという。
仮設住宅(29.73平方メートル)の暮らしは約3年間続き、母親ら12世帯は村が定住先として大滝に造成した元国有地に移り住んだ。殺害される約3年前から被告と同居を始めたが、昨年10月、母親は自殺未遂に及んで県内の精神科病院に通院していた。殺害される直前は「物を盗られた」などの妄想症状が著しくなった。
仮設住宅の問題は、橿原市に13世帯で移転した白屋の元住民たちが大阪高裁で逆転勝訴した国家賠償請求訴訟の法廷でも指摘された。知的障害のある女性が段差でつまずき、外出を怖がるようになって障害の程度が重くなっていく様子を親族が証言している。
家族の事件を背負うことになった二女は取材に対し「あまりに狭く、冬は寒いところでした。仮設が憎い」と涙ながらに語った。共に裁判を傍聴した夫(68)は「義母が白屋を離れることがなかったら、こんな不幸な事件は起こらなかったでしょう」と肩を落としていた。
被告は、母親を殺害した直後、首をつって自殺を図ろうとしている。被告は起訴事実を認めているが、検察官は「殺害以外に手段はあった」としており、厳しい求刑も予想される。判決は28日に言い渡される。
裁判を傍聴して
(2015年8月26日に追加)
800年とも1000年ともいわれる歴史があった川上村白屋。その名の通り、この土地が産した白土は、大和郡山藩の藩札の原料になったともいわれる。高く積まれた石垣が集落の景観を成し、築100年の民家などざらであった。仮設住宅がもたらした生活環境の激変はお年寄りにこたえたと聞く。
郷里を離れた兄弟姉妹、親類、縁者たちが痛ましい事件で法廷の傍聴席に集うことになった。
26日の第2回公判では、白屋生まれの被告の姉(73)が証言台に立った。母親が元気なころ、道で誰かとすれ違うと「まぁのぼりよ」と誘われ、上がり込んでお茶を飲むことがよくあったと述べた。これが白屋の人々の日常だった。
それでも全世帯で仮設に移住したのだから、地縁は続いていたはずだと思う読者もいるだろう。しかし、緊急的な避難の渦中にあって、どこに定住するかで区民の間で意見が分かれ、分裂状態に陥ってしまう。区民一丸の集団移転はできなかった。
仮設住宅で心の調子を乱した母親は、定住先として村が用意した大滝の造成地に移ることになった。国の補償を得て他の11世帯と共に一戸建ての住宅に住んだ。被告の姉はこの日の公判で「インターホンを押さなければ区民を訪ねることができない、そんな新築の様式の変化が母には苦痛で耐えられなかった」と証言した。
閉廷後、姉に話を聞くと、白屋では、玄関の鍵などかけたことがなかったと話していた。「ダムがなかったらこんなことには―」と涙を落した。追い詰められ、犯行に及んだ弟の被告は初犯。真面目なトラック運転手だった。奈良少年刑務所内の拘置所で書いた反省文が法廷で読み上げられた。取り返しの付かないことをしてしまったと反省している。
不幸な事件を傍聴した。巨大ダムの計画が浮上した当時、大滝の人々がふん尿をまいて抗議した感覚が正常であることを思い知った。【関連記事へ】