川上村・大滝ダムの地滑りで消えた古寺が再建 玉龍寺、旧白屋地区住民の移転先の橿原で5日、落慶法要
よみがえった観音堂で、最終の整備作業をする工事担当者=2016年11月17日、橿原市戒外町の玉龍寺境内
取り壊される前の観音堂=川上村白屋(2007年3月15日川上村白屋地区文化財民俗調査報告書から)
13年前、国土交通省が奈良県川上村で建設中の大滝ダム(2013年完成)の試験湛水中に、沿岸の同村白屋で地滑りが発生、同地区の全住民37世帯が移転を余儀なくされ、取り壊された地区の古寺、玉龍寺の再建が移転先の同県橿原市戒外町で進み、来月5日、落慶法要が営まれる。住民の菩提寺として親しまれ、山間集落の文化財として高い評価を得ていた江戸期の観音堂がよみがえった。大阪などに四散した元住民らは、知らせを聞いて駆けつけ、胸を熱くしている。
寺側と国交省近畿地方整備局との補償交渉が成立したのは2007年。これにより、寺は同所で約1200平方メートルの用地を取得し、庫裏を皮切りに、本堂、観音堂(大覚堂)、山門の順に建設を進めてきた。
観音堂は享和2(1802)年、古材を多用して再建されたといわれる。県教育委員会が1987年に行なった近世社寺建築調査では、「山間の堂の一形態として、中世末から存続した意義は大きく、保存が望まれる」と評価した。保存状態がよく、移築を望む声も根強かったが、かなわなかった。
ケヤキの丸柱は、1600年の再建当時の材とされ、今回、解体時に一本を残して用いた。祭などの折に人々が酒をくみ交わした堂で、地滑りにより村外に移転した民家の居間にも解体前の写真が飾られており、心のよりどころだったことが分かる。
本堂も再建され、約300年が経過したとされる欄間と須弥壇を保存して堂内の中央部に据えた。本尊の木造地蔵菩薩立像は平安期の作と伝わる。宝暦12(1762)年の銘が残る釣り鐘は第2次世界大戦中の供出を免れ、住民が守った。除夜の鐘が復活することになり、橿原市の新しい名所として話題を集めそうだ。
檀家総代は元白屋区長、井阪勘四郎さん(88)ら3人で構成される。3人とも国交省を相手取り、地滑りによる損害賠償の国家賠償訴訟に挑んだ。裁判は19世帯の住民が加わった。1審の奈良地裁は、近畿地方整備局は地滑りを予見できたのに危険防止策は不十分とし、大阪高裁は各世帯に100万円の賠償を認めた。国は最高裁への上告を断念した。
このうちの一人で、橿原市石川町に集団移転した住民13世帯の中の一人、林業横谷圀晃さん(75)は「観音堂は芸能が披露されたこともあり、懐かしい。寺の落慶を迎え、安心した。日々、私たちは生かされている喜びに感謝し、菩提寺を見守りたい」と話す。
山号の善行山という名は、善行という白屋地区の小字にかつて寺が存在したことによる。今回の再建を機に、住職の不二門瑞秀さん(61)は白屋の名が消えゆくことを惜しんで、白屋峰善行山と改めた。「私も白屋地区で生まれた。子どものころ、観音堂の屋根に登ったり床下に潜ったりして遊んだ。大滝ダム試験湛水中に地滑りが発生したとき、地区内でも観音堂は最も損傷がなかった建物の一つで、実に強い建物だった」と振り返る。
5日午前の落慶法要に先立ち、前日4日の夕刻には、寺の行事、万灯供養が復活する。僧の読経が行なわれた後、それぞれの檀家の塔婆の前にろうそくの灯明がともされ、先祖を供養する。白屋地区の歴史は1000年とも800年ともいわれる。【続報へ】