コラム)憲法は「みんなで幸せ追求しよう」という呼びかけ/政治と憲法の風景・川上文雄…6
展覧会「たんぽぽの家の仲間たち」(筆者は共同企画者)のイメージ作品「コミュニティコレクションがつなぐ縁」(福岡左知子「織りのベルト」+たかはしなつき「moon」+アボカドの種を筆者が構成・撮影)
日本国憲法
第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
第25条1項 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
今回のコラムは13条の「幸福追求権」をはじめとする日本国憲法のいくつかの条文を理解するうえで、筆者が決定的な影響を受けた見解をとりあげます。山浦玄嗣(やまうら・はるつぐ)が「イエスの言葉 ケセン語訳」(2011年、文春新書)で述べている見解です。著者は1940年生まれ、東北大学助教授を経て1986年より岩手県大船渡市で医院を開業。本の帯には、被災地の医師がふるさと(岩手県気仙地方)の言葉で聖書を訳した本とあります。
山浦の見解は、菅総理大臣が就任早々、政権の基本姿勢を示すにあたり使った「自助、共助、公助」という語句について考えるうえでも、とても参考になります。
「しあわせ」は「さいわい」と違う
山浦が強調する「しあわせ(幸せ)」と「さいわい(幸い)」の違いは、憲法13条の「幸福追求権」を理解するうえで重要です。幸福を2つのどちらで理解するか。
57ページ以下、違いを示す例文を見ていきましょう。「幸いなことにあの人は事業に成功して大金持ちになったが、幸せだったとはいいがたい」「(求婚するときにいう殺し文句は)花子さん、ぼくはきっと君を幸せにしてみせる!」。
「幸い(さいわい)」は幸運の意味。「自己中心的な都合のよさを喜ぶのであって…運まかせの好都合という側面」がある、と山浦は言います。だから、「花子、君はぼくと結婚できて幸いだったね」と言ってはいけないそうです。「幸せ」を使うべきである。
「幸せ」は「しあわせ」。山浦によれば、これは複合動詞「し・あわす」の連用形で「二者間の関係・交わりがうまくかみあうことから生じる安堵(あんど)や喜び」を意味する(国語辞典にも「仕合わせ」あり)。事業に成功しても、人間関係で「しあわせ」なことはなかった。
事業に成功したのは、運ではなくその人個人の能力だと言えないこともない。しかし、「し・あわせ」は個人主義・個人の自己責任とは別次元の幸福追求が示唆されている。「しあわせ」の意味を知ると、「幸運でなく、自分個人の実力で得たのだ」という主張について「運か個人の実力かの違いなんて、小さい」という考え方があると気づかされます。
山浦は「二者間の関係・交わり」と言っているけれど、「多くの人たちの関係・交わり」へと広げていくことができる。それは社会生活(地域生活)のなかで享受できる「しあわせ」ということになります。これを憲法に適用してみましょう。25条は「地域社会のなかで、さまざまな人たちと交流することで享受できる『健康で文化的な生活』=しあわせな生活」の権利を規定したもの。13条はそういう生活を追求する権利を規定したもの、となる。
単独の個人を出発点にしない「幸福追求」の概念がある、ということです。利己的な利益追求をめざしたものでもないことは、言うまでもありません。以下、山浦の「しあわせ」論にそって、さらに日本国憲法を読んでいきます。
「しあわせ」は支え合いの幸せ。そうであるなら、「しあわせ」は日本国憲法が何度も使っている「公共の福祉」にきわめて近い。つまり、この憲法は「しあわせ」を最優先に考えた文書である、ということになります。
「公共の福祉に反しない限り」という語句がある13条。筆者は次のように理解します。13条には「すべて国民は個人として尊重される」とある。すると幸福追求の権利が「個人主義→利己的利益の追求」と勘違いされる恐れが生じる。そうならないために、「公共の福祉に反しない限り」、つまり「『しあわせ』に反しない限り」という制約を付けた。
興味深いのは、第12条が「公共の福祉に反しない限り」という語句を使っていないことです。「国民は、これ(権利)を濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」とあり、「しあわせ追求」の義務を強調している。その前提には、「『しあわせ』を追求するために権利を使おう」という呼びかけがあると見ることができる。
政府の責務は実現への支援
12条、13条、25条と、憲法はみんなで「し・あわせ」を追求しようという呼びかけです。政府(国政)はそのための手段。しあわせな社会生活、地域生活を実現することが政治(国政)の責任。健康で文化的な社会生活、地域生活(個人がしあわせを享受できる)を実現することが国政の責務。その責務を逸脱しないように、憲法には統治機構(国会・内閣)について、さまざまな工夫と命令が書き込まれている。
「し・あわせ」の視点から理解された憲法の思想にしたがうと、就任早々菅総理大臣のつぎの発言はどのように見えるでしょうか。NHK「ニュースウォッチ9」のなかで「自助 共助 公助」と書かれたフリップを見せながら言いました。「まず自分でできることは自分でやる、自分でできなくなったらまずは家族とかあるいは地域で支えてもらう、そしてそれでもダメであればそれは必ず国が責任を持って守ってくれる。そうした信頼のある国づくりというものを行っていきたいと思います」。
憲法13条「…国政において最大尊重」される幸福追求権も、同じように考えられないこともない。しかし、筆者の13条はこれと違います。「し・あわせ」の基本は「自分でできないことを他人にやってもらう」ではない。みんなで力を「あわせ」ることから話がはじまる。
さて、総理大臣自身も幸福を追求する。これが「自助、共助、公助」のようなものだったら、どうなるか。自分の好きなようにやらせてもらう(かぎられた側近とともに)。国会での説明責任はほどほどにしたい。「まったく問題ない」と私が言えば、それがすべて。困ったら自分の党に支えてもらう。そして、自分の有利な時期に衆議院解散。なにしろ総理大臣の専権事項。「国民のみなさん、私の政権になって幸いでしょう」と信頼できる政府を強調する。これは「花子、君はぼくと結婚できて幸いだったね」に似ています。(おおむね月1回更新予定)
かわかみ・ふみお=客員コラムニスト、元奈良教育大学教員