コラム)コロナ感染した留置場の「男」たち/政治と憲法の風景・川上文雄…10
猿沢の池付近の風景(2012年7月12日、筆者撮影)
昨年(2020年)4月、新型コロナウイルスの集団感染が東京都の渋谷警察署留置場で発生。感染者は7人、そのうちの5人は逮捕・勾留中の人でした。この5人について、「男」と表現したメディア(新聞、テレビ)と「男性」と表現したメディアがありました。読者のみなさんが記者だったら、どちらにするでしょうか。
犯罪を報道する際、メディアはいろいろ配慮します。逮捕されたとしても、誤認逮捕もありえるから、実名を使うときには「○○容疑者」となる(実名呼び捨ての時代がありました)。ただし逮捕という事実は無視できないので「〇〇さん」にはしない。匿名にすることもある。容疑者のプライバシーへの配慮でしょう(この点、公務員に対しては厳しい)。これも逮捕という事実は無視できないので、「男性、女性」でなく「男、女」の呼称を使う。
5人のコロナ感染者は犯罪行為により逮捕された人たちです。犯罪に関わっては、実名なら「○○容疑者」と呼ばれ、匿名なら「男」と呼ばれる。しかし犯罪とは関係のない出来事の報道で「男」と言っていいのか。筆者は疑問を持ちました。
生きている人間と見なされなかった
だれもがコロナ禍の社会のなかで生きている。生命に関わるコロナ感染への恐怖は、留置場の5人も変わりない。そこに思いが至るならば、「男」は使わないという選択肢もあったのではないか。それでも「男」を使ってしまった。ひとたび劣った存在として否定的に評価した後は、その評価の枠組みを脱することがむずかしかったのでしょうか。
これは犯罪者の場合にかぎらない。「劣った存在」と括(くく)られた人たちに起こりがちなことです。大学受験をめぐって2018年に発覚した事件はその1例です。
ある医科大学が長年、女子受験者の点数を一律に減点し、男女の合格者数を調整していました。大学側の言い分は、「医師不足を解消するため」。女性医師の離職率が男性より高いことに対処したということでした。
医師として社会貢献したいという思いに男女の違いはないはずです。しかし、大学側には、女子の受験者・合格者は男子とくらべて「頼りにならない、価値の低い存在」という考えがあった。筆者のいう「劣った存在」と見なされたのです。ひとたびそのように見てしまえば、そして医師不足の解消という大義で自らを正当化すれば、女子受験者にとって大学入試が人生設計においていかに重要なことであるかは二の次になる。医師不足は入試と絡めずに、別のやり方で解決すべきなのに、そのようにしなかった。
医師不足の解消のために調整・操作できる「もの(数値)」として扱ってしまった。「女子受験者一律減点」とはそういうこと。採点の操作がなければ本来合格できたはずの人について、大学側はその数を「少数」と見て無視できた。女子受験者は生きている個人として尊重されなかった。有利な扱いを受けた男子も、採点システムのなかで「もの」扱いされたことに変わりない。もちろん、男子をはるかに超えて、女子の置かれた状況は深刻です。
留置場の事例、「男」と呼ばれて人生が一変するわけではない。医科大学の女子受験者ほど被害は深刻でないかもしれない。とはいえ、報道する側・試験を実施する側の考え方の問題としては、どこか通じるものがある。
留置場の事例はちいさな出来事に見えるだけに、筆者にはかえって重要です。「男」を使ったメディアと対照的なのは、第9回コラムの水野晃男さん。たこ焼きの代金を払えない人も払った人も、同じお客さん。払えない人が目立たないようにする配慮がありました。(おおむね月1回更新予定)
かわかみ・ふみお=客員コラムニスト、元奈良教育大学教員