関西広域)東大阪、都市の成り立ち見つめた民俗学 語り継がれる小島勝治 30歳で戦没

入隊当時の小島勝治(左)=「日本統計文化史序説」(未来社)=と東大阪市編さんの遺稿集
昭和10(1935)年前後の大阪府東部(旧中河内)で、農業集落が都市に変化する過程を調査し、数多くのユニークな業績を残しながら、30歳で戦没した小島勝治(1914~1944年)。その足跡が現代に語り継がれている。もっぱら山村漁村を歩く民俗学とは異なり、旧村に発生した商工業、職人、日雇い労働者などが作品の中で登場する。社会の断面をあぶり出す手法と親しみやすい文体が特徴だ。
小島は大阪市生まれ。1940年までの9年間に386点の作品(著作、編集、談話)を残した。旧布施町役場・布施市役所(現・東大阪市役所)に計4年間勤務、市の刊行物の執筆にも貢献した。小島ゆかりの東大阪市はその作品に注目し1972年、「小島勝治遺稿集」(A5判、103ページ)を刊行した。膨大な業績のうち、民俗関係のものの中から東大阪と関係のある作品を中心に選び収めた。
刊行当時の市史編纂(へんさん)室で遺稿集を担当者した島田善博さん(現・東大阪市文化財課古文書調査員、奈良県生駒市在住)は91歳の今も、市民向けの歴史学習会で講義し、機会あるごとに小島の足跡を語り継いでいる。
島田さんは「遺稿集を編集する課程で、小島と縁があった民俗学者、宮本常一の東京の自宅に電話で問い合わせをしたら、出身地の山口弁だった。刊行の翌年には「幻の統計学者」のタイトルでNHKが小島の特集を放送し、ゲストは松本清張。苦労人だった清張の前半生を思うと、その口ぶりから、いかにも小島は清張好みの在野の人物だと感じた」と話す。
遺稿集には、小島の師に当たる民俗学者、沢田四郎作(旧陸軍軍医)の追悼文が収録されている。これによると宮本の骨折りにより、近畿の民俗学徒たちが一堂に集う例会が1934年から大阪府堺市の浜寺公園で開かれ、1936年から参加していた小島は22回例会で、府民に忘れられていた河内の綿作について、25回例会では「職人制度の採集」をテーマに講演したという。
沢田は追悼文で「その頃は、民俗学研究でも全国的に山村漁村を中心とした採訪報告が圧倒的に多く、都市の民俗、わけて職人の民俗には注意する人が少なかった時代」と小島の業績を評価している。
文化の下積みを描く
小島は文化の下積みを描いた。奈良県生駒市との境、北河内の旧磐船村は戦前、夏になると大和(奈良県)から峠を越えて手伝いの男たちがやってきたという。渡り人とか、流れ込みと呼ばれた男手が小作百姓になり、さらに都市労働者になっていったと小島は考察する。
やがて農業以外の煩雑な職掌が外来者の手に任せられ、髪結床と呼ばれた理髪師もそうだった。村の非常時や冠婚葬祭で先頭に立って働くのは彼らであり、いわば村の公僕。ふだんは将棋もやれる、相撲も取れる、弁舌も達者という円満な人格の所有者であったと小島は記録する。
また、小島によると大阪・泉南の漁村では、紀州から流れ込んで来た者が多く、小屋掛け住まいをして漁業の手伝いをし、「ことの日」には必ず家々の門口に立って祝言を述べる風習が残っていた。
河内平坦部の町方などでは、出入りの大工、左官、植木屋、畳屋などは旦那衆の家の慶事にも弔事にも手伝いに訪れ、その人数の多さが家格になっていたそうだ。葬祭の泣き女の役割は、「子方」と呼ばれ従属の子女が担った。
一時流行した男性の腰巻き姿は、小島が調査した時点から半世紀前の紀州の庶民生活に源流があり、その後、大阪市中で全盛を極め、さらに河内の農村にたどりついたという。このようにその遺稿集の随所に、次の時代の政治や教育、文芸など、あらゆる文化の下積みとなる要素が拾い集められた。
その業績を掘り起こすシンポジウム「東大阪が生んだ鬼才―民俗学者・小島勝治」が近畿大学の会場で開かれたのは2023年11月。小島の母校、日本大学専門学校は近畿大の前身。元大阪歴史博物館副館長の伊藤廣之さん(民俗学)が「小島勝治の可能性―職人・都市・貧民救済―」と題して講演した。
司会をした小林義孝さん(摂河泉地域文化研究所)は「現代人に小島の存在を知らしめたのは、遺稿集を編さんした島田さん。民俗学としての小島の作品の価値を高めたのが伊藤元副館長。都市に身を置いた小島は統計学に秀で、その素養をベースにした民俗学は社会学的な要素がある。社会の矛盾に対し鋭い視野があった」と話す。
大和の農村も顔を出す

奈良県生駒市の旧傍示の農地。西隣、大阪府側の河内にも傍示村があった=同市高山町、2026年9月5日、浅野詠子撮影
都市民俗学を極めた小島の世界において、大阪府の隣に位置する大和の農村の姿が名脇役のように顔を出すこともある。雑誌に発表した「傍示村の神とてつたい」(1936年)という作もその一つ。
奈良県最北部の生駒市高山町に「傍示」というバス停留所がある。府県境に当たり、西隣も同じ名の傍示という村だった(現・大阪府交野市)。小島が調査した時代、大和の傍示は40戸あったのに対し、交野の傍示はわずか6戸で、全員が伊丹姓を名乗っていた。
東西の傍示村が祭る天神さんは兄弟だったと伝えられてきた。交野の傍示では、家々を新築したり、増築したりするときは、必ず大和の傍示から大工が来たという。
交野の傍示は往年、土地が余って困るくらいだったので、下流域からも田を作りに人々が来た。平素は、遊行職人のような人たちが村の労働力を償った。村は次第に都市に労力を送り出していった。
また、小島執筆の「大阪府中河内郡の農村年中行事断片」(学会史「近畿民俗)の中に、雨乞いの地として奈良県天川村の大峰山が出てくる。雨乞いをする村人は、昔は同山に出向いたが、いつしか道明寺天満宮(大阪府藤井寺市)に出かけるようになった。
天満宮から頂いた御神火は、地元の氏神に献じられる。人々はお百度を踏み、竹の先にわらをくくり、火を付け、燃やした松明を各自が振りながら村中を走り回ったと小島は記録する。夏場に日照りが続くと、井戸掘り職人が雇われたという。
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東大阪市編さんの遺稿集には「職人の町と農業―統計上より見たる布施町の農業―」(「浪速の鏡」1936年)が収録されている。都市が成立する過程を詳細に検証した作品だ。
旧布施町(現・東大阪市)はこのとき、翌年に市制施行を控えるというタイミングだった。小島は、市が誕生するまでの十数年間を「職人の町」と位置づけた。この間、旧村の耕地面積や農家戸数はどのように減少したのか、農家の副業は何か、日雇い労働者の現状はどうだったのか、などの観点による詳細な実地調査が時系列の表と共に語られる。
江戸期の大和川付け替え(1704年)によって川跡に開墾された農地では、木綿が特産品となり、自作農家においては米以上に収穫された。しかし日露戦争後の外綿輸入によって綿作は凋落(ちょうらく)する。「古風な文化の終局」と小島はみる。2年後、雑誌「上方」に寄稿した「河内棉作調覚書」には綿作農村の経済や年中行事を詳述し、古風な文化の在りし日を改めて伝えている。
都市化の要因として農民の職人化を小島は挙げる。著書「職人の町と農業」は大軌(現・近鉄)の開通(1914年)、産業道路の全通(1919年)交通の発達を重くみている。田より世話の少ない畑から切り開かれていく。米麦の生産も減少し、食用園芸農作物の割合が急増する。
商業が発生する一例として、農家の旧家にあった分家住宅の納屋を改造することに始まり、陳列棚をこしらえ、米穀や薪炭、たばこなどを販売する。工業も同様な納屋などに家内工業が発生したという。
大昔から日本は農本の国とされた。当たり前だった自給自足労働や相互扶助労働の形が変容し、家の従者である「寄子」や外部から来る日雇いの労働に傾斜していく。小作が増加し、これまで農家の中心的な労力であった女性が大工場の「女工」になる。いずれも都市をつくる下積みの力と小島はみる。
こうして経済生活に関係のない儀礼や「晴れ」の気分は無駄なこととして遠ざかっていく。小島は「働くことを重しとしその中にかえって趣味多い人生を見出す人が増加してきている」と観察した。
野戦病院収容に至るまでの状況
島田さんは遺稿集の刊行から25年後、再び小島の人生の軌道を執筆することになる。東大阪市の市史編纂委員会(北崎豊二委員長、6人)の委員となり、「東大阪市史 近代Ⅱ」(1997年)の第1章地方自治の展開の中で小島の軌道に光を当てた。
旧布施市の職員時代に小島は「布施町史・続編」「布施市勢要覧」など8点に及ぶ市の刊行物を手がけていた。「統計文化」というジャンルを提唱したという。
小島は1942年、旧陸軍68師団溝口隊(6095部隊)に編入され、中国戦線に動員された。戦地からも統計や民俗に関する書簡、備忘の記録、投稿などを送り続けたが、小島は1944年7月、衡陽で戦病死した。そこは大河川、湘江の中流にある激戦地で、日本本土を爆撃するB29の基地があったと市史は伝えている。
戦況の様子を島田さんは、旧布施市小若江出身の元中隊長、片岡勇蔵さんに聞き取りし、談話を同市史に収録している。
「制空権は中国側に掌握され、加えてアメリカの新鋭兵器を装備した中国軍の守りは固く、40余日の難戦の末、衡陽は陥落したが、槍兵団(兵団文字符)は多数の死者が出て、旅団長が直撃団で戦死、師団長も負傷して後退する壊滅的な損害を受けた」
片岡さんの証言によると、小島が収容されたという師団病院は、黄茶嶺など数カ所あったが、いずれも負傷者を漢口(現・武漢)に後送するまで、応急的に収容する程度の野戦病院だった。
小島の最期がおぼろげに想像できる。出征前の小島の日記の中には、旧布施市内の孤児たちが満蒙開拓団に送り込まれていた事実が書いてあり「憤って筆を走らせていた」と島田さん。
没後28年の1972年、524ページに及ぶ小島の著書「日本統計文化史序説」が未来社から刊行された。奥付にある発行日の7月28日は命日。この原稿を執筆中だった1941年10月、小島は教育召集を受け入隊。3カ月後に召集解除になると、直ちに序説の稿を継ぎ、1942年3月下旬に一応の脱稿となった。溝口隊に再招集される7日前の出来事であったことを島田さんはこの「東大阪市史 近代Ⅱ」に書いた。
「これからも小島の業績を伝えるとともに、戦争ほど理不尽なものはないことを語り続けたい」と島田さんは力を込める。
遺稿集は東大阪市役所が400円で頒布。同市立図書館、大阪府立図書館なども所蔵。

54年前に担当した小島勝治遺稿集を前に、業績と戦没について語る島田善博さん=奈良県大和郡山市内、2026年9月3日、浅野詠子撮影
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