コラム)福祉施設の小さな憲法、その大きなちから/川上文雄のじんぐう便り…5
障害者スポーツ(パラスポーツ)の1つ、ボッチャの公式球一式。周長は約270ミリメートル、重量は275グラム。写真は天然皮革製のもの。「神功カフェ」の今年3月の催しとして、地域に暮らす高齢者たちがボッチャを楽しんだ
1988年の7月30日、全8か条の憲法が世に現れました。奈良市にある障害者福祉施設「たんぽぽの家」が制定した「たんぽぽ憲法」です。障害のある人たちの意見を取り入れて制定されたのに、「障害(者)」を示唆する言葉がありません。その点では、すべての人に宛てた憲法になっています。
たんぽぽ憲法
ここでは、人間として豊かに生きるために、次の権利が保障される。
- 一
- その人が誇りをもって生きる。
- 二
- その人の個性が生かせる。
- 三
- その人のプライバシーが守られる。
- 四
- その人が豊かな人間関係をもつことができる。
- 五
- その人が知識の用い方、精神の導き方を学ぶことができる。
- 六
- その人が挑戦し、あやまちをおかすことができる。
- 七
- その人が未来について計画し、熱中することができる。
- 八
- その人があるがままに、感じたままに生きていくことができ、それが認められる。
冒頭(憲法「前文」)の「ここでは」は「たんぽぽの家では」なのですが、読み替えができます。日本国、全国各地の学校(小中高大、専門学校)、あらゆる場所で。世界中のどこでも。まさに世界人権宣言。国際連合が採択した30条の「世界人権宣言」(1948年)と並べたくなる、独自の輝きを放つ宣言です。文体は平明、むずかしい語句もなく、語数も少なく、まっすぐこちらに届きます。あるいは、乾いた砂地に水がしみわたるように。
もちろん、8つの条文を否定形で「その人の個性が生かせない」などと書き換えてみれば、それらは「たんぽぽの家」の重度身体障害の人たちが克服しようとした困難の主要リストそのもの。とはいえ、障害の有無に関係なく、誰もが条文のどれかに自分の思いを乗せることができます。
私の場合は、第4条(豊かな人間関係)が一番切実です。私だけでなく、過去・現在・未来のいつか何かの折に、これについて困難を経験しない人はまずいないでしょう。そのほかの条文については、第1条(尊厳)は、職場でのハラスメントに苦しんでいる人、学校でいじめを受けている人、言葉の暴力を受けている人。第8条「その人があるがままに、感じたままに生きていくことができ、それが認められる」は、同性婚を法律制度として認めてほしいと切に願う人たち。第3条(プライバシー)は、身体・性に関わって重要です。
「たんぽぽ憲法」がすべての人に宛てた人権宣言になっているのは、偶然ではありません。1973年に始まる施設づくりの運動の歴史を知ると、それが分かります。以下は、「たんぽぽ」の運動を記録する会編「花になれ 風になれ」(1990年、財団法人たんぽぽの家発行)という本を参照して書きました。
運動の担い手は重度身体障害のある子どもの母親たち。子どもたちは深刻な問題に直面していました。養護学校卒業後は、働きたくても仕事がない、障害のために「遊び」もままならない。障害手当で生活の一部を保障されながら送る自宅生活は、人間らしい生活とは言えない。既存の福祉施設にも問題がある。障害者を保護するという名のもとに管理しがちな施設。地域社会とのつながりも希薄で、一般社会から疎外されてしまう。
「それなら、自分たちで施設を作ろう」と決意して1973年に「たんぽぽの会」を結成し(会長・上埜妙子、副会長・福田ふさの)、新聞記者の播磨靖夫(後に財団法人「たんぽぽの家」理事長、2022年度文化功労者)をはじめとする同志・協力者とともに本格的な運動を始めます。
運動がめざした施設は「障害のある子どもたちが、仲間といっしょに生活しながら、学んだり、仕事したり、遊んだりする場」であり、「地域で孤立するのではなく、多くの市民と交流できる場」としての施設でした。これは「たんぽぽ憲法」第4条を借りて表現するならば、施設内においても、地域社会の人たちとの関係においても「豊かな人間関係のなかで生きることができる」施設です。
「豊かな人間関係のなかで生きたい」という思いは、障害の有無に関係なく、すべての人が願う根元的なものです。だから、「たんぽぽの会」がひろく外部の社会に向かって施設づくりの支援を求めたとき、それに応じた人たちは「助けてください」というお願いというよりも「いっしょにやっていきませんか」という協働の呼びかけを聞いたのではないでしょうか。施設の建物は1980年に完成。障害者の幸福だけを追求する施設ではありません。ユニバーサルデザインを活動の指針とする施設として歩みを始めます。
その後制定された「たんぽぽ憲法」がすべての人に宛てた人権宣言になっていることに、何の不思議もありません。
実は、施設づくり運動を本格的に始める前、母親たちは既存の施設を訪れて要望を伝えるのですが、「ぜいたくだ」と言われます。そこであきらめていたら「たんぽぽ憲法」は制定されなかったでしょう。ぜいたくなんかじゃない。社会からの疎外など、さまざまなことで最大級の困難を抱えていたからこそ「いい加減なもので妥協してはいけない、確かなもの、根元的なものを求めよう」と考えたのだと思います。求めたものが、誰にとっても「確かなもの、根元的なもの」にならないわけがありません。
私たちも妥協するな、ということです。たとえば、運動の出発点にあった「障害手当で生活の一部を保障されながら送る生活はいやだ」にならって、給付金とか支援金とかを連発する金配りの選挙公約に満足しない。それは真っ当な不満です。なぜなら、それだけでは「自分の個性(能力)を生かせる」(第1条)仕事を得て「豊かな人間関係のなかで生きる」(第4条)ことができるか、とても心もとないからです。
どの条文も個人と施設に任せて終わりではなく、社会全体の課題、政治の課題として考えたい内容です。政治に期待すること、託したいことを言葉にしていくとき「たんぽぽ憲法」を道案内にできそうです。大きなちからになります。
これは1947年5月3日施行の憲法を更新(アップデート)することでもあります。私には「日本国憲法+たんぽぽ憲法=日本の憲法」なので、7月30日も憲法記念日です。
【追伸】
施設づくり運動のために母親たちが「たんぽぽの会」を結成したのは1973年で、今年はそれから50年。何年経(た)とうが、親にとって子どもであることは変わらないのですが、子どもは年齢を重ねて大人になります、高齢になります。1998年には、親から離れて生活するためのケア付き集合住宅が建設されました。そこで暮らしているうちに亡くなる人、医療的ケアの必要が生じて退所する人が当然いらっしゃいます。
コラム)憲法は「みんなで幸せ追求しよう」という呼びかけ/政治と憲法の風景・川上文雄…6
(おおむね月1度の更新予定)
かわかみ・ふみお=奈良教育大学元教員、奈良市の神功(じんぐう)地区に1995年から在住