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発行者/奈良県大和郡山市・浅野善一

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ジャーナリスト浅野詠子

関西広域)戦前の無産者診療所の歩み刊行 大阪吹田、貧困層に医療、特高が弾圧 元教諭が掘り起こす

2年5カ月の間、診療所に関わったあらゆる人々の活動を丹念に記録した「三島無産者診療所物語」

2年5カ月の間、診療所に関わったあらゆる人々の活動を丹念に記録した「三島無産者診療所物語」

柏木功さん

柏木功さん

 戦前、貧困層や勤労大衆への医療の提供を目的に、大阪府三島郡吹田町栄町(現・吹田市)に開設された民間の診療所の歩みが、「三島無産者診療所物語」としてまとめられた。兵庫県伊丹市に住む元小学校理科専科教諭、柏木功さん(71)さんが掘り起こして執筆した。診療所は特高の命令で、わずか2年5カ月で閉鎖に追い込まれた。治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の吹田・摂津支部機関紙に連載したものを同支部が7月1日、刊行した。

 診療所は、戦時体制が強まっていく1931年、お金の心配をせずに安心して掛かれる医療をと、有志が開設。1934年、大阪府特高課の命令を受けて閉鎖された。

 保証金を積めないばかりに入院を拒否された重病人がこの時代にいた。治療費を無料にしてもらう代わりに大学医学部の「学用患者」となって、実習の実験台になり、病躯を提供した人もいたという。経済恐慌を背景に、国家は薬価を釣り上げていった。

 本書の表紙にも、診療所開設当時の模様をつぶさに伝える貴重な写真(左下、相川診療所蔵)が使われている。一目で、若いスタッフたちの意気軒昂な様子がうかがえる。診療所は瓦屋根を載せ、看板の診療所名にはエンペラントも併記されている。「薬価一日一剤十セン」「診察無料」などと張り紙でPRし、多いときで1日70人を超える患者がやって来た。

 運営費は、当時の金で300円の借金をして充てた。ほかに160円ほどの寄付も集まった。内科、外科、小児科など6科目で診療を開始、後に歯科、産科が加わり、保険医の資格を目指した。しかし「経営は苦しく、未収も多かった」と当時の診療所書記(事務長)、中井種一(工場争議団出身)の戦後の談話が紹介されている。診療所の寮に「ご飯だけ食べに来る人がたくさんいた」との中井の回想が残る。

 柏木さんは遺族から話を聞き、資料集めに奔走し、診療所の開設運動に参加した人々を掘り起こした。加藤虎之助ら医師11人、看護師5人をはじめ、労働組合員、学生など、その数は多い。思想統制を敷く国家に認められず、激しい弾圧に遭い、医師2人、看護師、助産師、薬剤師らが次々と検挙された。歯科医師の池澤一雄は獄舎で発病し、出所して間もない1941年に死亡した。

 診療所が閉鎖に追い込まれた前年の1933年は、治安維持法を笠に着た取り締まりがひどくなり、文化サークルや労組、弁護士など広範な分野の人々が官憲に拘束されている。日本はこの年、国際連盟を脱退した。

 圧政下において、社会運動は高揚期ともいわれた。柏木さんによると、大阪府内には、公衆病院などを名乗り、無産者医療運動の系譜ともいえる7つの診療所があった。北区には「朝鮮無産者診療所」ができたが、弾圧を受けて閉鎖された。関係者は再び立ち上がり、西成区で「西浜民衆診療所」を開いたという。

 資産を持たず「無産」と呼ばれた貧困層や工場労働者、農村地帯と連帯し、平和や自由を模索した運動だった。

美術家、演劇人も支援

 「幅広い運動に支えられていました」と柏木さんは話す。三島の「無診」開設に協力しようと、劇団「戦旗座」は、基金集めの行事を企画し、徳永直原作の「戦列への道」を1931年5月、吹田・朝日座で上演した。官憲が監視のために臨席し、観客160人が席を埋めたという。

 本書の表紙の右下の写真(個人蔵)は、プロレタリア美術展の案内看板が見える。これも大変、珍しいスナップ。診療所が開業する直前に、内覧会を兼ねて展覧会場とし、反戦などをテーマにした漫画やポスター展に446人が訪れた。

 大阪府大東市ゆかりの彫刻家・浅野孟府が関与した可能性が高いことを柏木さんは示唆する。当時のプロレタリア美術は、大正期新興美術運動の頂点といわれた同人「三科」(解散)出身の有力な美術家たちも参加し、暗転する時代の緊迫した空気が漂う争議の画や労働者像などの佳作を多数、生み出した。

 「三島無産者診療所」を切り盛りした加藤医師は、診療所開設の4カ月前、東京・上落合の村山知義(元「三科」)アトリエで開かれた新興医師連盟創立大会にも参加している。

 診療所は狭い待合室がいっぱいになり、外まで患者があふれていた。応援に来ていた2医師が来られるなくなり「加藤先生はじめ従業員汗だく」と柏木さんはつづる。厳寒のある日、加藤は自転車のペダルをこいで往診に出た先で、倒れてしまった。それ以前から腹の痛みがひどく、休むようにと周りは忠告したが、「代わりの医師が来るまでは」と、自分が手術をした患者の経過を診察するために出掛けたのだった。手遅れの虫垂炎により死亡、28歳だった。同僚の弔辞にも露骨な検閲がなされ、16日後に「三島無産者診療所」は幕を閉じる。

 
閉鎖命令に屈することなく、今度は町立診療所の即時設置を掲げて人々は横田甚太郎を町議に送り出す。無産勢力の議席獲得である。「吹田町会傍聴団」を作って診療所設置運動に乗り出した柏木茂弥(1904~1970年)は柏木さんの父である。劇団「戦旗座」で大道具を担当した。三島「無診」の精神を受け継いだ仲間たちは1937年初夏、小学校の会場で「町政改革演説会」を開いた。「演説会を小学校で開くことができたのは、横田の町会進出の成果でしょうか」と柏木さん。しかし翌年、横田も茂弥も検挙された。

 今日とは比べものにならない不自由な世相において、貧富の差に左右されない医療を求めて奔走した人々がいた。

 「新発見は書くだけでよいのですが、著名な出版物で間違って伝えられていることを、どう正しく分かってもらえるかに苦労しました。4年前に話を聞けた方が今年は話もできません。もう30年前にやれば、もっと具体的な話があったと思うのが心残りです」と柏木さんは話している。

 本書はB5判、64ページ。問い合わせは柏木さん、電子メール isao.kashiwagi@gmail.com  関連記事へ

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