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発行者/奈良県大和郡山市・浅野善一

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コラム)苦しむ人たちの放置に抗して―ガブリエラ・ミストラルを読む/川上文雄のじんぐう便り…10

木製のパズル。筆者の息子(1984年生まれ)が中学2年の時、美術の授業で作ったもの

木製のパズル。筆者の息子(1984年生まれ)が中学2年の時、美術の授業で作ったもの

 深刻な苦しみを生きる人たちのことを知るたびに、この詩を思い起こすようになりました。チリ生まれの女性で、1945年にノーベル文学賞を受賞した詩人ガブリエラ・ミストラル(1889~1957)の「子どもの小さな足」。以下はその一節です。「傷ついた小さな足/石を踏むたびに切れて/雪がしみて痛み/泥にまみれて痛み」。冬の日を裸足で歩く子どもの苦難を描き、大人による無理解・放置を非難し、励ましの言葉で子どもに呼びかける詩です。

 冬の日を歩く子どもの裸足を描いていますが、ただ単に子どもの足を描いているのではなく、子ども大人の区別なく、人生を歩いて行くうえでのさまざまな苦難を示唆する詩とみなして読むようにしています。児童虐待の被害者、旧統一教会の信者を親に持つ子どもで大人になった今も苦しんでいる人たち…。

 「私の子ども時代は、この詩に描かれているほど過酷ではなかった」という人を含めて、何か苦しい体験を思い起こしたら、誰もが自分とのつながりを発見できると思います。子どもを励ます詩に自分も励まされるかもしれません。大人の足だって、子どもと比べたら大きいだけの「小さな足」です。あるいは、「他人の苦難を放置する大人」とは自分のことではないかと、自問するようになるかもしれません。「苦しむ人を放置していいのか、何かできることはないのか」と問いかける詩です。

ガブリエラ・ミストラル「子どもの小さな足」

 私の翻訳で紹介します。スペイン語の原詩、その日本語訳(田村さと子編訳「ガブリエラ・ミストラル詩集」、小沢書店、1993年)、英語訳の3つをつきあわせて翻訳しました。6つの詩連(詩句のまとまり)に原詩にない数字を付けました。

(一)
子どもの小さな足
寒さで青白い
それを見ても 包んであげようとしない人たち
ああ神様!

(二)
傷ついた小さな足
石を踏むたびに切れて
雪がしみて痛み
泥にまみれて痛み

(三)
大人は盲目 だから気づかない
あなたが歩いたその後には
いのちの光にかがやく花が
残されていることを

(四)
そして
血のにじむ足が踏みしめた場所には
カンショウの花が咲き
芳しい香を放っていることを 

(五)
まっすぐな道をいくつも歩いて進むのだから
顔をあげて勇者のように堂々と 小さな足よ
あなたは
完全無欠なのだから

(六)
子どもの小さな足
苦しむ二つの小さな宝石
あなたを見ようともしないで通り過ぎる
そんな人たちがいるなんて!

 この詩の特徴は、大人を非難する詩句が繰り返されていることです。第1連からそうです。途中の詩連も最後の詩連も。大人は子どもの苦しみに気づこうとせず、無視・放置する。苦しみだけではありません。すべての子どもが(外見、能力、境遇に関係なし!)「光かがやく いのちの花」(第3連)、「芳しい香を放つ花」(第4連)「小さな宝石」(第6連)であることにも気づかない。

「完全無欠」と励ます

 1つだけ、第5連はそうではありません。「苦難と無視」の詩連のあと、詩人の声が響きます。「まっすぐな道をいくつも歩いて進むのだから/顔をあげて勇者のように堂々と 小さな足よ/あなたは/完全無欠なのだから」。このように大人の無視・放置に抗して、子どもを励ます言葉を届けます。花であり宝石である子ども―人間としての生の根元的なすばらしさを持つ子ども―を「完全無欠」と祝福しながら励ましています。

 第5連を読めば、大人も励まされそうです。コラム冒頭に「何か自分の苦しい体験を思い起こしたら、誰もが自分とのつながりを発見できる詩」と書きましたが、「自分のなかにも『人間の生の根元的なすばらしさ』が存在している」と自信を持てれば、周囲の人間・社会の評価などに一喜一憂ふりまわされず、自分の道を堂々と進めそうです。

放置していないか自問

 しかし、この詩は励ましの言葉で終わりません。最終の第6連はまた大人に対する非難です。「苦しむ人を放置していいのか」と問いかけているかのようです。苦しむ自分(励ましてもらいたい自分)がいる一方、気づかないうちに(気づこうともしないで)苦しむ人たちを無視・放置している自分がいるのではないか。そのような自問を誘う詩だと思います。

 たとえば、旧統一教会の元2世信者のこと。この人たちが経験した過酷な受難は放置されていました。まず、この「宗教」団体と持ちつ持たれつの関係を維持することにより選挙戦を有利に戦いたかった自民党(=政権党)による放置がありました。しかし、その実態が明るみに出た後、今度は私たちが「その放置を放置したままでいいのか」と問われる番です。

 何ができるでしょうか。1つは、声をしっかり聴くこと。元2世信者の中から、自分のなかに閉じこもらずに、顔を出して発言する人たちが現れました。その中には記者会見や国会の参考人質疑に応じ、被害者救済新法の整備を求めるなどの活動をしている人もいます。重圧やひぼう中傷に苦しむこともあったそうです。それでも自分が信じる「まっすぐな道」を堂々と歩いている。ミストラルの詩を読んで励まされたわけではないのですが。そのような人たちの声を聴く。ほかにも、いろいろあると思います。

 以上のように書いていくと、ついつい連想が広がっていきます。日本国民という「小さな足」も苦境の中にいて、それを無視・放置している「政府という大人」がいる。励ますのは誰か。主権者としての国民以外にはありません。主権者なら「この放置を放置したままにしてはいけない」と考えるでしょう。主権者は「大人の小さな足」が集まってできた「大きな足」です。

【追伸】

 書かずに終われないことがあります。1つは、この詩を読むと「子どもの親として、私自身どうだったのか」と問わずにはいられないこと。虐待したかどうかには関係ありません。この詩はすべての親に向けられていると思います。もう1つ。この詩の祝福と励まし(第5連)は、虐待死の子どもをはじめ生命を奪われた人たち、そしてみずから生命を絶った人たちには、もう届きません。

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(おおむね月1度の更新予定)

川上文雄

 かわかみ・ふみお=奈良教育大学元教員、奈良市の神功(じんぐう)地区に1995年から在住

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