講演録)水源地の主権を目指して~「メガソーラーを考える奈良の会」発足の集い
山添村のメガソーラー計画地の近くで貴重な動植物について解説を受ける見学者。三重県境が近い=2021年11月7日
(本稿は、浅野詠子が「奈良の声」や著書などで伝えてきた自治体やまちづくりの課題を踏まえ、2021年12月11日、奈良市西之阪町、市男女共同参画センターで開かれた「メガソーラーを考える奈良の会」発足の集いで講演した内容を修正し再構成したものです)
本日の「メガソーラーを考える奈良の会」発足に先立ちまして、先月は、山添村そして平群町の開発現場で見学会が行われました。山添村の馬尻山においては、81ヘクタールにわたる大量の森林が伐採される計画ですが、現地を案内してくださった前村議の向井秀充さんの解説は大変、印象深いものでした。
巨大な太陽光発電事業により、水質への影響が心配される簡易水道の水源をつぶさに見学しました。計画地には、貴重な野生生物が生息する広葉樹と針葉樹の混合林などもあり、そこを訪ねながら、見学の一行は、三重県と奈良県の県境に向います。
外観はまったく同じ森林のように映るのですが、すぐ隣の三重県名張市内の森を避けるようにして、民間の開発会社はソーラーの計画を線引きしている、というではありませんか。
「三重県の方が開発の規制が厳しいからだと思う」と向井さんは話しておられました。
なぜでしょうか。2つの県で一体どこがどう違うのか、帰ってきて取材を始めました。手始めに、天理市福住町のソーラー事業計画を議題として2014年に開かれた県の森林審議会・林地開発部会の議事録を読んでみました。
ある委員は、奈良県の希少動植物の保護条例に抵触する恐れはないのかと質問しています。県側は「専門家が現地を確認しており、問題はない」と回答しました。
別の委員は「奈良県として太陽光発電のガイドライン的なものを定めるよう、関係課と検討してもらいたい」と要望していました。事務局の県林業振興課(現・森と人の共生推進課)は「今後の課題として検討する」と答弁しています。
今年6月には、平群町でソーラー開発をする業者の申請書類に不適正な箇所が見つかり、県が工事停止命令を出していますが、荒井正吾知事は同月の県議会において「メガソーラーのガイドラインを導入する」と表明しています。
先に申し上げた天理市福住町の案件を審議した7年前にも県は「課題として検討する」と言っています。ではこの間、どのような検討がなされていたのか、県の情報公開条例に基づき、関連の文書を開示請求しました。すると「文書はない」と、いとも簡単に、森と人の共生推進課の担当者は言うのです。
本当に検討しなかったのか、それとも検討をしたが、その経緯の文書を破棄したのか、と尋ねると「昔のことなので分からない」とかわします。
「7年前が昔のことなのですか?」と質問すると「そうです」と返ってきました。
この返答には大変、違和感を持ちました。このところ、奈良県庁の係によっては、ろくに文書を探しもしないで平気で「文書不存在」の通告をしてきます。それにしてもこの、森と人の共生推進課なる名称、随分とご大層な名前を付けたものですね。
行政が日ごろの説明責任を全うするためにも、公文書は存在するはずですし、時には国会で問題になったりしますが、県庁にも市役所にも情報公開の制度があります。地方政治において本当はとても大事な課題だと思います。
奈良県庁において情報公開を司るのは文書法制課というところです。担当者に中に入ってもらい、文書不存在についての説明を開示請求者にきちんと行うよう、助言してもらいました。
ようやく森と人の共生推進課は「組織内で多少の議論はしたが、本格的に文書を作成して残すまでには至らなかった」と説明を改めました。
隣県の三重県が太陽光発電施設の適正導入に係るガイドラインを策定したのは2017年のことです。事業者に対し、関係法令の遵守をさせるだけでなく、計画の早い段階において、住民に対してきちんと情報提供するよう促し、地域住民の理解が得られなければ、操業することが難しいと思われる内容です。
37の関係法令を列挙していますが、これに市町村の独自の条例が加わると、二重、三重のバリアになるでしょう。まずは、問題が降りかかってきた私たち奈良県民は、関係法令を徹底して読み、人の見残したものはないのか、深く読み込んでいくことが大事だと思います。
三重県がガイドラインを講じて2年後、山添村の馬尻山において、81ヘクタールもの巨大ソーラー事業が浮上するのでした。平群町のメガソーラー計画地は、業者が県に提出した開発申請書類に不適正な記載が本年、見つかりながらも森林はすでに丸裸です。直下の住民に豪雨災害などの心配が広がっていると聞きます。
先月、平群の現地を案内してくださった、須藤啓二さんによりますと、虚偽申請ともみられる問題の記載は、須藤さんら、反対する地元の住民グループが突き止めたそうです。すでに森林は伐採され、ろくな洪水対策もなされていないといい、直下の人々は本年7月に起きた熱海土石流災害の悪夢が再現されるのではないかと心配しているそうです。
本はといえば、県の林政部局が、開発申請書類の誤りを見逃し、森林はすでに丸裸になっています。業者と県は、いったん森の回復に努めたらよいと思います。ある林業家の話では、30年くらいしたら、そこそこの林になるといいます。少しは自然が元に戻ってきたところで、県が導入するという立派なガイドラインに基づいて指導・監督をしたらどうですか。
平群の人々が案じている熱海土石流災害の再来。災害現場となった熱海の盛り土には、基準以上の土砂が入っていたといわれます。すぐに産廃のことが思い浮かびますね。
今から20年ほど前の出来事ですが、地方分権のうねりの中で、自治体の新税ブームのような現象が起こりました。東京都の石原知事が提案した銀行税案がつとに有名です。西日本では、三重県の北川知事が、全国初の産廃税を創設し話題をさらいます。これ以上、三重の山中に産廃が来ないよう、排出業者に重税を課す狙いです。
こうなると、うちの県に産廃がたくさん来たら困る、ということで、隣の奈良県も産廃条例を作りました。われもわれもと、近畿一円に広がっていったと記憶します。
ではなぜ、三重県が2017年、太陽光発電事業に対するガイドラインを設けたときに、奈良県は、すぐに後追いをしなかったのですか。産廃よりも軽くみていたのでしょうか。
平群町のメガソーラー開発申請に不適正な数字が見つかり、工事は止まったものの、伐採され尽くした計画地を見学しあぜんとする人々=2021年11月24日付「奈良の声」記事から
先人たちの運動に学ぶ
先ほど、関係する法令を徹底して読み込んでいこうと申し上げました。過去の住民軽視の開発を巡って、忘れられない判例があります。
皆さん、ゴルフ場開発の差し止め判決が全国で初めて出たのは、どこの土地だと思いますか。(すかさず「奈良!」と八木健彦さん=「メガソーラーを考える奈良の会」代表=から掛け声あり)
その通りです。奈良地裁葛城支部というところで出された吉野桜カントリークラブ(仮称)に対する差し止め命令でした。1999年の出来事です。地元住民側の主張において、勝利した争点は、調整池などの洪水対策が不十分という事実であり、今日の平群町メガソーラー開発の問題点と似ているところがあると思います。
ゴルフ場開発業者の防災対策に欠陥があることを突き止めたのは、和歌山大学の水理・河川工学の教授、宇民正氏らでありました。開発現場は、吉野川支流の流域です。ご存じのように紀の川は、五條市から上流は吉野川と呼びますね。森林を伐採してゴルフ場を建設するには、調整池などの洪水対策が必要となりますが、河川と一口に申しましても形状は千差万別。そこで「余裕高」といって、通常の対策より30センチ高くする義務を、開発業者の村本建設子会社は怠ったことが裁判で証明されました。池の水面を30センチ高くする、という意味ではなく、ある基準地点において想定される河川の氾濫度合いを30センチ高く想定して洪水に備えるための対策だったかと思います。
この義務は、河川法の条文をいくら読んでも出てこないです。河川管理施設等構造令というものが当たります。(参考「吉野山と歴史的環境権―ゴルフ場反対運動と裁判の記録」吉野桜カントリークラブ建設差止訴訟原告団著、つむぎ出版)
裁判中、原告の住民は、ゴルフ場を開発した村本建設子会社が奈良県庁に提出した開発申請書類の開示を求めていましたが、非常に難航します。奈良県は、全国の都道府県の中でも情報公開制度を作るのが一番遅かった県であり、公文書管理の運用などに甘さがあって、それに開発主の利益を擁護してか、なかなか開示しようとしません。提訴後、10カ月ほどしてようやく裁判所の指揮によって、奈良県は渋々、開示したといいます。
奈良県の情報公開制度が遅れたのは、ひとえに県議会が早期の制度作りを強く要請してこなかったからだと思います。
ところで原告の住民側は、計画地の地盤にも問題があると訴えていましたが、退けられました。地盤に対する対策が争点となった開発としては、同じ吉野川で、ここよりさらに上流の川上村に建設された大滝ダム(国土交通省)の問題があります。ダムが地滑りの安全対策を怠ったとして、大阪高裁で2010年、元白屋集落の住民が勝訴しています。
ダム本体が完成する直前に実施された試験貯水中に、同集落の家々の壁や地面に亀裂が走り、地滑りの前兆とみられたことから、全37世帯が避難し、平安時代から続くといわれた集落が消えました。
争点は、深度70メートルの地点で確認されていた粘土層の滑り面です。大阪市大で地盤工学を教えていた高田直俊教授らが科学的な意見書を書き、勝訴に導いています。
しかし裁判で勝っても、原告の人々には笑顔がありません。地滑りで郷里を追われ、仮設住宅に3年間も住んで、これからどこに移転しようかという話し合いをしていくうちに仲たがいが起こり、人々は分裂状態に陥っていきます。水没などで立ち退く500世帯は、昭和30年代から移転することが決まっており、国と交渉する時間は十分にありました。白屋の地滑りは、ダム完成間際のことであり、人々は当初「全37世帯が一緒に移転したい」と希望しましたが、山ばかりの村に適当な土地はなく、かないませんでした。
ダムが過疎に拍車をかけた、とよく言われます。川上村は日本でも有数の国産材の名産地でありますが、林業は厳しい不況に見舞われ、ダム建設によって、村にとどまるより、橿原方面に移転することを希望する人々が増えていきました。橿原に行けば近鉄の駅も、百貨店も、大きな病院もある。道路事情も良くなり、墓参などで里帰りすることなどわけはありません。
ダムが過疎に拍車を掛ける、という図式。しかしそれは山添村では当てはまらないことが先月、分かりました。メガソーラーの計画地を見学した帰り、参加者の皆さんと奈良市民の水がめ、布目ダムに向かいました。この安定した水資源開発のために、山添村の人々には大変お世話になりました。48世帯が水没したのですが、この日、解説をしていただいた村議の三宅正行さんの話では、奈良市秋篠町など村外に移転したのは5世帯にとどまり、多数の43世帯は村に踏みとどまったと聞きました。
人々は村に残る選択をしたのです。たとえ郷里は湖底に沈むとも、この村でやっていこうと決断しました。私は山添村の人々の精神性を垣間見るような気がします。素晴らしいと思いました。
馬尻山81ヘクタールのメガソーラー計画地のうち、3分の2ほどがすでに買収されてしまい、残る3分の1は、区有林が占めており、反対運動はまさに天王山ですね。あの見学会の日は、案内役の向井さんから残念なことも聞きました。開発に協力した村人たちは、反対運動をする村人たちとすれ違っても「目も合わさん」「あいさつもせん」
これまで穏やかに暮らしてきた人々の間柄に、一体、誰に権利があって深刻な亀裂を生じさせたのですか。人々の絆というのが何よりの地域防災ではないのでしょうか。
メガソーラーに反対する平群の人も山添の人も、努力を少しも放棄することなく、日々、努力を積み重ねておられます。苦しい自問自答にさいなまれることもあるのではないでしょうか。本日は激励に参りました。
民間企業の開発と闘った人の話といえば、元国立市長の上原公子さんのことが思い出されます。高層マンションのラッシュの時代と正面から闘った人ですね。マンションの高さは、市民が憩うイチョウ並木の高さに逆らわない高さにしてほしいと、行政指導をされたそうです。運動が昂じて、業者側から営業妨害で市長は訴えられてしまいます。司法は高額の損害賠償を容認し、確定しますが、最後は、上原さんを支持する国立市民一人一人の募金によって支払われたことが忘れられません。
民間相手ではないですが、西日本では、国土交通省という河川の権力が計画した吉野川(徳島県)の可動堰(ぜき)反対の住民投票運動が深く印象に残ります。ある運動の担い手は、取り壊しが計画された江戸時代築造の利水堰、第十堰の保存を訴える場を兼ねて音楽コンサートを催したら、良い方向に動いていったと、回想していました。
遠回りかもしれませんが、このメガソーラー反対運動も、ときには地域の若手音楽家、若手美術家らを発掘する集いと共に催しを企画するのも良いと思います。案内ちらしの大半は、明るい音楽会、展覧会のこと、しかし、下の方に少しだけメガソーラー反対のメッセージなどを入れますと、ちらしを受け取る県民の10人に1人、あるいは100人に1人が「おや…? 何だろう」と、関心を持ってくださるかもしれません。
先月は、平群町のあの痛々しい地肌むき出しの森林伐採現場を皆さんと見学しました。帰りの集いは、「道の駅」の集会施設が会場でした。厳しいテーマでしたが、平群って、こんなにたくさんの農産物が採れるのかと目を細めた参加者もおられるでしょう。帰りに特産品の買い物を楽しまれた方も多かったと思います。
正月向けの葉ボタンの栽培がたけなわで、会場の近くの畑には、まだ成長途中という感じの小ぶりのキャベツみたいなかわいい花がこれから大きく咲こうとしていました。これからも平群町の魅力を発掘しながらメガソーラー反対運動を応援したいと思います。
山添村の開発地を見学した帰りに立ち寄った「歴史民俗資料館」も印象深いものがありました。私たち一行の到着を、手ぐすね引いて観光案内ボランティアの方々が待ち受けておりまして「これでもか」というくらい、実りある解説をしてくださいました。
そこには、奈良市のJR京終駅と大和高原をかつて結んだ索道を再現した模型が展示されていました。村民有志の手作りです。いわば空中の物流でした。山添村からは特産の凍り豆腐や大豆、薪炭などが運ばれたそうです。大正8(1919)年に着工し、33年の歴史がありました。
戦後は名阪国道が開通し、奈良市と大和高原は新しい大動脈で結ばれ、こんどは平成に入ると、布目ダムの完工によって市は安定した水利権を得るようになります。水源地・山添村との新たな関係が始まったのです。索道という空の物流の時代は去りましたが、新しい水資源と水道消費者との結びつきは、かけがえのない絆です。
本日は、平群町と山添村、巨大ソーラー開発で苦しむこれら地域の人々の気持ちに耳を傾け、反対運動に協力しようと、市民団体「メガソーラーを考える奈良の会」が発足しました。これまでは住民同士があまり交流する機会がなかった平群と山添との絆が生まれようとしています。皆さまの運動の進展を願ってやみません。ご清聴ありがとうございました。 関連記事へ
「メガソーラーを考える奈良の会」の発足を報じる2021年12月12日付毎日新聞