コラム)福島原発の事故賠償、国の「製造物責任」を問う/政治と憲法の風景・川上文雄…12
石井悠輝雄(いしい・ゆきお、1980年生まれ)「古里」。作者は奈良芸術短期大学専攻科日本画コース修了、現在は福岡県で創作活動。筆者のアートコレクションから知人に贈った作品
大規模な地震と津波に襲われた福島第1原子力発電所。運転中の原子炉1~3号機が炉心融解(メルトダウン)して福島県内外の広い地域を放射能で汚染。甚大な被害をもたらしました。ふるさとの喪失―生活基盤を根こそぎ破壊された地域もあります。国家的事業として建造・維持されてきた原発は、国と電力会社が共同して作った製造物。その設計上の欠陥が大惨事の原因でした。「製造物責任」の考えにしたがって、国の損害賠償責任を明らかにします。
「製造物責任法」(1994年制定、以下PL法)は設計上の欠陥による損害賠償を義務づけています。ただし、PL法でいう「製造物」は家電製品や自転車・自動車のような動産であって、不動産つまり住宅のような建造物は含まれない。とはいえ巨大施設の原発も、広義の製造物。原子炉本体、それを格納する建屋、電源系統など、全体として製造物です。電器製品が家庭に届くのと同じで、原発施設が人々の暮らす地域の現場に届いたのです。PL法の基本にある考え方を原発施設に適用して、国の賠償責任を考えます。
非常用電源の設計ミスが原因
炉心融解の原因は、原子炉冷却装置を動かす電源が非常用を含めてすべて失われたことでした。では電源喪失をもたらした原因は何か。想定外の大規模地震・津波でしょうか。製造物責任の視点で考えると、直接の原因は設計ミスです。
福島第1原発1~6号機の非常用発電機13台のうち、主要10台は地下1階に集中していました。設計における基本中の基本に従うならば、想定外の大規模な地震・津波が起こった場合に備えて、非常用電源施設を複数、それぞれ離れたところに、いくつかは高台に設置すべきだった。集中設置は一撃で全滅しかねない。一般の人でも容易に理解できる。専門技術者を擁する国と東電は、当然そのことを理解していなければならない。この設計ミスにより、運転中の1~3号機(非常用電源が地下1階に集中)はすべての電源を失いました。
地下に集中させたのは、アメリカの原発をモデルにして建設したからです。このことは「脱原発福島ネットワーク」の石丸小四郎氏が作った「2014年5月14日 東電交渉・説明資料」で確認できます。ハリケーンという強風に対処するのであれば「地下に集中」でよいかもしれない。しかし、大規模な地震・津波に対処するうえではまったく無意味、むしろ危険です。資料には「地質は泥土化し、くずれやすくなる」との指摘もあります。(石丸氏の資料は東電福島原子力建設事務所が作成した「土木工事の概要」に依拠)
基本の注意を怠った
「非常用電源を何か所設置すればよかったのか、50カ所か」とか、「何メートルの高台に設置すればよかったのか、100メートルか、200メートルか」などと問い返されても、被害者が科学的に説明する必要はない。「1カ所に、しかも地階に集中していたために、全滅したことは明らか」と主張すれば十分です。
専門的科学者・技術者が基本的な注意を怠っていたのです。SL法には「当時の科学的知見にもとづくかぎり、設計ミスを回避することはできなかった」のであれば免責されるという規定(4条1号)があります。しかし、これはある判決が言うように、「加害側の科学者がもっている知見」で判断すべきでなく、「客観的に社会に存在する知識の総体」「入手可能な世界最高の科学技術の水準」という観点で判断すべきものです。(「イシガキダイ料理食中毒事件」、2005年1月26日の東京高裁判決)
判決にある「世界最高の科学技術の水準」とはいかなる意味か。一般人の常識的な判断・基本的な安全思想にもとづかない「世界最高」はありえない。その基本に合致した科学者・技術者の見解は存在しているはず。もし存在していなければ、常識が「世界最高」として優先する。福島原発事故について「設計ミスは回避できなかった」は成立しません。
実際に起こった大規模な地震・津波を「予見できた・できなかった」の問題以前に、そもそもこの原発は欠陥施設だった。いつどこでどの程度の規模で具体的に起こるというのではなく、一般的に「想定外の大規模な津波は起こりうる」という前提で、つまり想定外を「想定」して、発電所を設計・建造し、地震と津波に対する技術な備えをすべきだった。それをしなかった国には、欠陥施設の建設を国家的事業として推進し、欠陥を放置した責任がある。
最高裁「決定」、国の製造物責任を示唆
別事件に関する最高裁「決定」があって、国の製造物責任を考えるための示唆を得ることができます。PL法関連ではなく刑事事件です。電気工事のミスにより近鉄生駒トンネルで火災が発生、乗客に死傷者が出て、施行業者(個人)が業務上過失致死傷罪で起訴されます。
最高裁は以下の論理で大阪高裁の有罪判決を維持し、上告を棄却しました(2000年12月20日)。電器工事ミス(重要な機器を取り付けなかった)がなければ、火災は起こらなかった。火災発生の細かいメカニズムは予見可能であったと言えないとしても、当然施すべき工事をしなかったことは問題である。その工事をしておけば火災は起こらなかったのであるから、ある意味で予見できた。(末尾の「追記」に「決定」の原文を引用します)
以下の対応関係があります。〈不動産〉原子力発電所→トンネル。〈製造物〉非常用電源とその工事(地下に集中させた責任)→トンネル内の電力ケーブルと接続工事(重要機器を取り付けなかった責任)。取付工事により不動産に取り付けられた製造物はPL法の対象である、という東京高裁の判決があります。(「エスカレーターからの転落事件」、2014年1月29日判決)
最高裁「決定」は予見可能性について注目すべき判断を示したと言えます。科学的に確実な知識(データ)にもとづく予見可能性が存在しないにもかかわらず、ある意味「予見できた」と言って、専門技術をもつ工事業者に厳しく「危険回避責任」を求めている。これは製造物責任にふさわしい予見可能性の視点で判断したと言っていいでしょう。原発は、ひとたび事故が発生すれば、橋やトンネルなど他の建造物とは比較にならない被害をもたらすのだから、同様の、あるいはそれ以上の、厳しさが求められて当然です。
福島第1原発の場合、国は「製造物責任にふさわしい予見」をして対策をとるべきでした。そもそもの設計ミスがあった。加えて、完成後2002年には政府の地震調査研究推進本部が地震予測「長期評価」を公表。一線級の専門家や研究者を集めた国の機関が提出したデータが存在していたのです。責任は免れようもありません。
一方、東京高裁はこの「長期評価」の科学的な確実性を疑問視して「予見可能性」を否定、国の賠償責任を免じました(判決日2021年1月21日)。しかし、確実なデータが存在しないというのであれば、まさにその点において科学の限界を認めて対処するのが製造物責任にふさわしい科学的な態度です。科学的データがなくても、想定外の災害発生を予見して必要な対策をとる。科学を口実に「予見できなかった」と言うことがないように。
国家的事業としての原発建設。いくつもの法律を作って電力会社を支えてきた。「国と東電」の関係はトンネル火災事件での「近鉄と工事業者」の関係よりもはるかに一体的で、国には連帯責任があります。
国の賠償責任を認定した仙台高裁の判決(2020年9月30日)は「製造物責任」に言及していません。原告側の主張に製造物責任の考えがなかったのかもしれません。
【追記】 生駒トンネル火災事件について正確を期するために、最高裁による「上告棄却」理由の説明を全文引用します。
原判決(大阪高裁)の認定するところによれば、近畿日本鉄道東大阪線生駒トンネル内における電力ケーブルの接続工事に際し、施工資格を有してその工事に当たった被告人が、ケーブルに特別高圧電流が流れる場合に発生する誘起電流を接地するための大小二種類の接地銅板のうちの一種類をY分岐接続器に取り付けるのを怠ったため、右誘起電流が、大地に流されずに、本来流れるべきでないY分岐接続器本体の半導電層部に流れて炭化導電路を形成し、長期間にわたり同部分に集中して流れ続けたことにより、本件火災が発生したものである。右事実関係の下においては、被告人は、右のような炭化導電路が形成されるという経過を具体的に予見することはできなかったとしても、右誘起電流が大地に流されずに本来流れるべきでない部分に長期間にわたり流れ続けることによって火災の発生に至る可能性があることを予見することはできたものというべきである。したがって、本件火災発生の予見可能性を認めた原判決は、相当である。(下線は筆者)
(おおむね月1回更新予定)
かわかみ・ふみお=客員コラムニスト、元奈良教育大学教員