コラム)3つに分けて差別 森喜朗氏発言/政治と憲法の風景・川上文雄…17
筆者のアートコレクションから武田佳子(たけだ・あつこ、1957年生まれ)「ゆかいな顔シリーズ」の1点。作者は奈良県在住、たんぽぽの家アートセンターHANA所属
女性蔑視発言で森喜朗氏が会長職を辞した東京オリンピック・パラリンピック組織委員会。その後、女性理事が7人から19人に増員され、全理事に占める女性の割合が20%から40%に増えました。これで男女共同参画の理念にふさわしくほぼ男女同数の構成(男女平等)になった、と手放しによろこんではいけなかった。
新理事たちはそれまでの組織運営のあり方を変えようと、提言などいろいろな動きをしましたが、ことごとく失敗、成果をあげられなかったとのことです。事務局ですべてお膳立て、理事会全体は追認するだけのお飾り。事務局(官僚)主導は、政府の有識者会議などによくあることです。だから「女性蔑視・無視があった」と断言することは控えます。
それでも重大な疑義が残ります。組織委員会は森前会長の女性蔑視発言を本当に克服できているのか。森発言の根底にあるのは「女性を対等な存在と見なさない」という姿勢です。つまり、男性が主導する既存の組織文化を変えないという前提でのみ、女性を組織内に受け入れるという姿勢。森発言を振り返ります。
ものわかりのいい女とそうでない女
森氏は日本ラグビー協会の会長職にあったころ、率直に異論を述べることが多い「協会」のある女性理事を「話が長い」と煙たがっていました。女性蔑視発言は組織委員会の会合(リモート参加)で起こりました。その理事のことをほのめかしながら「こちらの委員会の女性理事はものわかりのいい方たちばかり」「みんなわきまえておられて、話も的を射た発言をされて、非常にわれわれは役立っております」と述べたのです。
森氏の発言の特徴は「三分割思考」にあります。3つに分けて差別する。そもそも人間には男と女の区別がある。その女のなかで、女A(ものわかりのいい・わきまえている女)と女B(そうでない女)の区別をつけて女Bを最下層として蔑視する。女Aだって本当に尊重しているわけではない。森氏自身にとって都合のいい存在だから持ち上げているだけです。
森氏は男性優位の組織文化を疑うことなく、「男、女A、女B」に分割したのです。「日本の組織文化を支えているホモソーシャル(男性同士の結びつきの強い社会)なボーイズクラブによる、根回しと忖度(そんたく)政治が再生産されている。現状の組織文化を変えたくないという抵抗がある」とは、上野千鶴子氏(社会学)の言葉です。
三分割思考(最下層の蔑視)は、歴史上いくつも事例があります。たとえばドイツのヒトラー総統。彼は人類を文化創造者(ドイツ人をはじめとするアーリア人種)、文化支持者(みずから創造することのない、日本人ほか)、文化破壊者(ユダヤ人、マルクス主義者)の3つに分けました。日本は第二次世界大戦でドイツの同盟国なのに、対等に見てもらえていなかった。ヒトラーの自文化優越思想はまったく根拠のない、そして正当化できない妄想です。
森前会長(組織文化、男文化)とヒトラー総統(ドイツ文化)。大虐殺のヒトラーと並ぶのは森氏には納得できないかもしれませんが、自分が帰属する文化の優位を当然視するところが2人の共通点です。
組織委員会は男性優位の組織文化を克服できないでいる。数合わせの男女平等で女性参画の門は広がった。それだけでは足りない。平等は対等で補強される必要があります。
対等は平等と異なる
「平等に分ける」と言えても「対等に分ける」とは言いにくい。このように対等と平等で異なる要素があるので、「平等を対等で補強する」という考えが可能になります。「対等の立場で話す」「対等の立場で相手の話を聴く」は違和感なく使えます。組織委員会は女性理事の主張を対等の立場で聴くことができていない。「平等+対等」の方向に進めていない。
男女共同参画の核心は「男女の対等な協力」です。そのために重要なのは、男女の能力の優劣を論じないことです。「現実・現状では男女に能力の差があるから、能力差に応じた扱いはやむをえない」などと考えないことです。これでは、男性優位のもと男女の役割分担を固定化しかねない。女は男を支える役割。これではヒトラーの「文化支持者」になってしまう。
男女の能力比較、的外れ
「男女の能力の優劣を論じない」について、筆者は野口三千三から示唆を得ました。野口は「二人でよりよく協力する能力の方が人間の営みにおいて根源的なものである」と言います(「原初生命体としての人間」岩波現代文庫 2003年172ページ)。「能力」という語句が使われているけれど、「男と女のどちらが有能か」という優劣比較の議論を的外れなものにする考え方です。
競技スポーツに関連づけながら野口が示唆していることを説明します。競技スポーツでは男女のあいだに体格、筋力に明らかな差があるので、直接の対戦はしません。例外は男女混合種目。卓球の混合ダブルスを例にとると、男も女もサーブとレシーブをする。その際の組み合わせは「女―女」「女―男」「男―男」「男―女」すべてある。サーブ・レシーブの後も男女交互にボールを打つ。男女の役割に違いがまったくありません。
今回のオリンピックで金メダルの伊藤美誠・水谷隼ペア。2人が対戦したら水谷選手が勝つでしょう。ほかのペアでも男子選手が勝つでしょう。(そうでないようなペアは、男が弱すぎて、オリンピックに出場できそうもない)。その意味では、能力が高いのは男子選手。しかし、以上の議論は混合ダブルスでは無意味です。重要なのは野口のいう「二人でよりよく協力する能力」。その能力を発揮しながら、それぞれの個性を生かしながら、協力して勝利をめざす。究極の「男女共同参画」種目です。これが対等な存在として協力するということです。
以上は、社会のいろいろな場面での男女共同参画(共生)を考える際にも参考になると思います。(さらに男女の関係に限らず、共同参画・共生社会を考える際にも)。憲法14条に「対等」の語を加えてみました。「すべて国民は、法の下に平等・対等であって、人種、信条、性別…により、政治的、経済的、社会的関係において、差別されない」
【追記】組織委員会は日本オリンピック委員会(JOC)とは別組織。オリンピック・パラリンピック大会終了後に解散します。このコラムで指摘した組織委員会の課題は、そのままJOCにも当てはまるのではないかと思います。(おおむね月1回更新予定)
かわかみ・ふみお=客員コラムニスト、元奈良教育大学教員