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ジャーナリスト浅野詠子

まちかど探訪)画家・浜田葆光の旧居現存 奈良の大正建築、孫家族が守り住む 志賀直哉「高畑サロン」常連、熊谷守一も仮住まい

写真左は土塀を大きくくり抜いた入り口と2階の窓のデザインが目を引く浜田葆光旧居、右は落ち着いた雰囲気の玄関=2025年6月3日、奈良市高畑町、浅野詠子撮影

写真左は土塀を大きくくり抜いた入り口と2階の窓のデザインが目を引く浜田葆光旧居、右は落ち着いた雰囲気の玄関=2025年6月3日、奈良市高畑町、浅野詠子撮影

 「鹿の画家」として知られ、近代奈良の美術を展望する上で欠かせない浜田葆光(はまだ・ほこう、1886~1947年)が大正時代に建築した自宅兼アトリエが奈良市高畑町に現存する。建物の修繕を重ねながら孫の会社員浜田隆さん(65)の一家が住み続けている。

間瀬謹平が1946年に描いた葆光の肖像画(奈良県立美術館「浜田葆光回顧展:没後30年記念」図録から)

間瀬謹平が1946年に描いた葆光の肖像画(奈良県立美術館「浜田葆光回顧展:没後30年記念」図録から)

 葆光は在野の洋画団体、二科会の会員として活躍した。旧居は木造瓦ぶき2階建て。建築を手掛けたのは京都の数寄屋大工棟梁、下島松之助。もう1人、鹿野熊市という大工も共に普請したという記録もある。葆光の没後30年回顧展(県立美術館主催)図録の年譜によると、1926(大正15)年に完成した。

 葆光邸の入り口は土塀を大きくくり抜いて玄関に通じ、この不思議なデザインと響き合うように、入り口上方の2階の小窓も馬蹄(ばてい)形をしている。

 新進画家として世に出た頃の葆光の暮らしは決して楽ではなかった。新傾向の洋画壇への登竜門とされた二科会・樗牛(ちょぎゅう)賞に輝いた1916(大正5)年、創作の地を奈良に移し、旧白毫寺村(現・奈良市)、奈良市北天満町(現・同市高畑町)の借家、同所の市営住宅などに住んだ。

 150坪の敷地に瀟洒(しょうしゃ)なアトリエ兼住居を建築できたのは、妻静枝の父で、マッチ王と呼ばれた神戸の実業家、直木政之介が資金を拠出したからだ。娘かわいさで政之介は女中付きの女中部屋も大工に造らせた。岳父、政之介の芸術家のパトロンとしての一面に支えられた。

 「2階のアトリエで相撲を取ってもいい」―。家族に自慢した葆光の言葉が浜田家に伝わる。強靱(きょうじん)な柱、梁(はり)など頑丈さをそう例えていたのだ。葆光のアトリエは戦後、改造されて3つの部屋に分割、教育関係者らの下宿になったこともある。

 室内の意匠には、葆光のこだわりを随所に見ることができる。自ら設計に関与したという和洋折衷のスタイル、そして天井や壁面に葆光が直接採用を指揮した芭蕉布、バナナの葉、すす竹などの素材が当初のまま残っている。郷里の高知県から特別上質な紙も取り寄せ、壁の部材として使われた。

◆ ◆ ◆

 「葆光邸を見て、志賀直哉が下島棟梁に高畑町の自宅(1929年築、県指定文化財)を普請してもらうことを決めたというエピソードが浜田家に伝わっています。葆光が新築の茶室を知人らに披露したとき志賀さんは感銘を受けたとのことで、志賀邸の茶室は葆光の茶室が参考になっているようです」と隆さんの妻智子さん(64)は話す。

 志賀は1925(大正14)年、奈良市に移住、初めは幸町(現・紀寺町)の借家に一家で住み、近隣の高畑町かいわいにアトリエを構えていた小見寺八山や葆光ら画家たちと交流するようになった。

 また、葆光邸の2階6畳和室には戦後、高名になった画家の熊谷守一(1880~1977年)が一時期、住んでいた。浜田家に伝わる話では95年ほど前の出来事という。床の間の家具などは当時のままという。

熊谷守一が住んだ葆光邸2階の和室に当時のままの家具がある=2025年6月3日、奈良市高畑町、浅野詠子撮影

熊谷守一が住んだ葆光邸2階の和室に当時のままの家具がある=2025年6月3日、奈良市高畑町、浅野詠子撮影

 1938(昭和13)年、大阪・阪急百貨店で開かれた熊谷の日本画展は葆光の推挙による。洋画家として頭角を現していた熊谷だが、葆光は同展に先立つ「阪急美術」9号(1938年刊)への寄稿で「専門の日本画家では描けない良さがある」と評価。さらに、その前年、近所に住む志賀に熊谷の作品を見せにいった際、「これはしっかり描いてある」と「敬服を裏書き」してくれたことや、志賀が梅原龍三郎や柳宗悦らに見せたところ評判が良かったことを紹介、大いに意を強くして熊谷の日本画展に臨んだと記している。

 智子さんによると、熊谷の次女で画家の榧さん(故人)が近年、葆光邸を訪れた際、父親のそうした時代を知っていたのか、感に堪えない表情で、土塀のある玄関前に立ち、父親の畏友、葆光の独特な構えの家をスケッチしていたという。

 葆光旧居近くに日本画家・栗盛吉蔵の旧居でヴォーリズ建築とされる建物がある。栗盛は、葆光門下生らでつくる美術グループ「新光会」に参加、リーダー格の間瀬謹平は師葆光の肖像画を残した。葆光は、志賀直哉邸の文化人交流の場「高畑サロン」の常連として知られるが、白樺派の画家でもある。2009年の展覧会「『白樺』誕生100年 白樺派の愛した美術」(京都府など主催)で、1911(明治44)年の「白樺主催洋画展覧会」に出品した画家の1人として、藤島武二らと共に作品が紹介された。

 隆さん智子さん夫婦は「これまで雨漏りする室内の一部などを随時直し、土塀も3回、修繕して住んでいます。富本憲吉をはじめ、葆光と交友があった多くの文化人たちの手紙が残されており、どう保存していくかが課題です」と話している。

奈良県立美術館が2002年に開催した「館蔵品展 高畑サロンの画家たち」の入場券の半券。中央が葆光「水辺の鹿」

奈良県立美術館が2002年に開催した「館蔵品展 高畑サロンの画家たち」の入場券の半券。中央が葆光「水辺の鹿」

筆者情報

まちかど探訪)志賀直哉らゆかりのまち、塀もバラエティー豊か 奈良市高畑町 伝統と近現代が共存

バラエティーに富んだ奈良市高畑町の塀、浅野詠子撮影

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