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発行者/奈良県大和郡山市・浅野善一

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ジャーナリスト浅野詠子

関西広域)近畿の新興人形劇の草分け「トンボ座」設立90年 浅野孟府ら関わる

「トンボ座」の人形劇を見る子どもたち。この子どもたちは戦禍に巻き込まれていく。舞台に動物たちの人形とあやつりの糸が見える=1930年ごろ、堀田穣さん所蔵

「トンボ座」の人形劇を見る子どもたち。この子どもたちは戦禍に巻き込まれていく。舞台に動物たちの人形とあやつりの糸が見える=1930年ごろ、堀田穣さん所蔵

JR・京阪の京橋駅前の国道1号。「トンボ座」はこのかいわいにあった=2021年2月22日、大阪市都島区東野田4丁目付近

JR・京阪の京橋駅前の国道1号。「トンボ座」はこのかいわいにあった=2021年2月22日、大阪市都島区東野田4丁目付近

 大阪市都島区東野田4丁目付近で1930(昭和5)年に旗揚げした新興人形劇団「トンボ座」が昨年、設立90年を迎えた。当地でハイカラな書店を開店した国田弥之輔が主宰し、彫刻家の浅野孟府、大正期の「人形座」(東京)出身の小代義雄らが人形製作や糸あやつりを担った。思想統制下にあって、活動は短期間であったが、近畿における洋風な人形劇の先駆けとなった。

 「トンボ座」は、小山内薫原作の子ども向けファンタジー「三つの願い」を上演し、孟府が人形をこしらえ、築地小劇場ゆかりの美術家吉田謙吉が舞台装置を担当していた。「大阪人形座の記録」(阪本一房著、1960年)に記された。

 記述はわずか数行。その後、1978年、大阪市内の文芸同人誌同人、野口豊子さんが大阪府大東市の孟府アトリエを訪ねてインタビューしたテープに、人形劇に関する回想があった。「マリオネット(糸あやつり人形)の顔や胴体を作った」と孟府は野口さんに語っている。

 神戸市在住の詩人、季村敏夫さんがテープの傷んだ箇所を修復して録音を再生し、それを2010年刊行の「窓の微風 モダニズム詩断層」(みずのわ出版)の巻末に「大阪のヴォルプスヴェーデ」と題し収録した。それによると、孟府は昭和の初め、東京の劇団「心座」の舞台美術を伊藤熹朔らと担当していた。熹朔は、国内で最も早い時期の西洋風糸あやつり人形劇「人形座」メンバーだった。

 「トンボ座」に関わった孟府と吉田謙吉は1925年、「三科」同人として新興美術の先端にいたことが国内近代芸術の文献から分かる。2人は人形劇だけでなく、子ども向けの玩具を扱う「らりるれろ玩具製作所」(1927年、東京)に参加した。この情報は、孟府没後に刊行された作品集の年譜や詩人サトウハチローの随筆にある。玩具製作の翌年、孟府はギニョール(片手づかい人形)劇団「テアトル・ククラ」(東京)に参加していたことが三重県立美術館の資料に出ている。

 児童文化に詳しい堀田穣・京都先端科学大学特任教授は「日本近代人形劇は伊藤熹朔、遠山静雄らの人形座から始まり、その正統な後継は、トンボ座の後継人形劇団である大阪人形座と言えるのだから、もっとさまざまな局面での解明が進んでほしいものである。90周年の節目もそのきっかけになれば幸いだ」と話す。

当時の東野田の街

 「トンボ座」があった辺りは、太平洋戦争で米軍の空襲を受けた。今は繁華街となり、旧観をたどるのは難しいが、地元のお年寄りたちに聞くと、人形劇団があったことは知らないという。ただ、「国田さん」という「トンボ座」主宰者の名字だけは記憶に残っている。

 昭和の初めには、街のシンボルとして大阪大学工学部の前身、旧大阪工業大学が立地するなど、文化の香りを放っていた。

 現在はJR大阪環状線となっている旧城東線(1895年開通)が近くを走り、ガード下に昔の赤れんがが残る。「トンボ座」は京阪電鉄・京橋駅の北にあったとみられる。

 野口さんと季村さんか残した孟府インタビューテープは、昭和初年の東野田の街を伝える。「トンボ座」を旗揚げした国田の実父は、京阪電鉄の大株主であり、佐伯祐三の絵をたくさん所蔵していたという。

 国田家は東野田に借家を持っており、インテリや文化通みたいな人士が住みつくようになった。「芸術村っていうか何かあやしいところ」と孟府はテープの中でもらしている。「あやしい」というのは、非合法だった左翼運動に身を投じたり、社会の枠から少しはみ出したりした人々がいる面白い街だったという意味と思われる。

 旧大阪外国語学校出身の「大岡コーゾー」という人も住み、弾圧されたと孟府は野口さんに語っている。日本工業新聞(産経新聞の前身)出身の大川鑛三とみられ、一昨年、刊行の「戦前大阪外語社研研究会会報」(代表、成瀬龍夫滋賀大学名誉教授)の中に、1931(昭和6)年に大川が検挙されたことが記録されている。

 孟府本人もその翌年、治安維持法違反の嫌疑により大阪府警西成署に収監されていたことが次男潜さん(2020年死去)の自伝にある。人形劇仲間の小代も逮捕歴がある。思想統制は次第に露骨になり、「トンボ座」は、所在地や名称などを変更せざるを得なかったのか、公演記録は旗揚げから1年8カ月、4回で終わっている。

 その後に発足する「人形トランク座」(1932年)、「大阪人形座」(1935年)は、「トンボ座」のメンバーと一部重複することが阪本の「大阪人形座の記録」から分かる。「大阪人形座」は1940年、官憲より解散を命じられたと「大阪社会労働運動史」は伝える。

 「トンボ座」の記録を書き残した阪本は、浅野孟府や小代義雄を仰ぎ見ていたと、弟子の人形遣い、山下恵子さん(67)は振り返る。阪本は、彼らの衣鉢を継いで、全国でも数少ない人形芝居専門劇場「出口座」(1974~2000年)を大阪府吹田市内で営み、孟府の製作した人形も保存。

 山下さんは孟府、小代の孫弟子のような存在。「座員の私にとり、お二人は仙人のような近寄りがたい存在だった。日本の新興人形劇の草分けとして東京の『人形座』は有名だが、大阪の『トンボ座』は活動期間が短いこともあり、あまり知られていない。それを継承する人形劇人として、阪本は気概と誇りを常に持っていた」

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