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発行者/奈良県大和郡山市・浅野善一

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ジャーナリスト浅野詠子

講演録)大東市の地域資源たる「彫刻家 浅野孟府」

浅野孟府最晩年のアトリエ=大阪府大東市(浅野孟府彫刻作品集から)

浅野孟府最晩年のアトリエ=大阪府大東市(浅野孟府彫刻作品集から)

 本稿は、「自由ジャーナリストクラブ」(小山帥人代表幹事)が昨年10月、大阪市内で開催した浅野詠子講演会の内容を大幅に加筆し、修正したものです。

【浅野孟府】大正の初め、官展に対抗して生まれた洋画団体、二科会。設立から10年後、二科急進派の「アクション」同人となり活躍した彫刻家浅野孟府のアトリエ兼旧居が、朽ちかけながらも大阪府大東市内に残っています。関西の新興人形劇においても先駆け的な興業に携わるなど、演劇の舞台装置や映画の特撮美術などさまざまな芸術に関わったのでした。東宝映画「ゴジラ」の怪獣を造形した利光貞三とは戦前の一時期、師弟関係にありました。2019年11月、評伝「彫刻家 浅野孟府の時代 1900―1984」(浅野詠子著、批評社)を出して以来、現存する作品の情報が数度、著者の下に寄せられ、その都度、「奈良の声」で紹介してきました。

1900年生まれ、その主人公と会ったことのある人を懸命に探す

2020年2月、浅野孟府生誕120年を記念し、ゆかりの大東市で開かれた行事のちらし。彫刻は「大阪の女」

2020年2月、浅野孟府生誕120年を記念し、ゆかりの大東市で開かれた行事のちらし。彫刻は「大阪の女」

 同姓ですが、私とはアカの他人です。孟府ゆかりの大東市において文化の街づくりを進める小林義孝氏(「大阪春秋」編集委員、元大阪府教育委員会学芸員)より評伝を書くことを勧められ、助力を得て3年近くの間、取材に取り組みました。

 たとえ正規の美術史からはじかれた人物であっても、ゆかりの土地において語り継ぐ人々がいる限り、伝承、作品、建物などは、皆かけがえのない地域資源であると思います。

 このたびの取材は、浅野孟府と直接、会ったことのある人々に1人でも多く当たることを目標に歩きました。1900年生まれの孟府の子どもたちの世代が80代から90代。孫にあたる人たちは還暦になろうかという年代です。

 ぜひお目にかかりたいと願いながら、「あと一歩」というところで惜しくも他界されていた方々が幾人かおられました。そうしたお1人が戦後の人気テレビ番組「てなもんや三度笠」で美術を担当した阪本雅信さんです。1954年、制作座が上演した「ルノワール群島」(サラクルー作)などの舞台装置を浅野孟府は手掛けますが、阪本さんは助手として展開寸法図をたくさん書いていたそうです。

 「このときの勉強が、私のその後の仕事の堅い基礎となっています」。氏のメッセージは2000年11月、浅野孟府生誕100年の遺作展が大東市で開かれた際の記念誌に出てきます。

制作座公演「ルノアール群島」。舞台装置、浅野孟府=孟府生誕100年記念誌から

制作座公演「ルノアール群島」。舞台装置、浅野孟府=孟府生誕100年記念誌から

 女優の新屋英子さんに取材しようとしたときも世を去っておられました。先ほど申し上げた演劇「ルノワール群島」に新屋さんは出演され「格調あるロマンの香り高い孟府さんの装置に大変感動したのを今でもよく覚えている」と、前述した生誕100年記念誌に寄稿されています。新屋さんの述懐によると戦後すぐのころ、大阪・御堂筋の本屋の奥の喫茶店にそうそうたる文士たちがたむろし「温顔の孟府さんもいた」と、この冊子の中で追想しています。

 孟府の最後の弟子、洋画家の岬和男さんは2015年9月、77歳で他界され、会えませんでした。60年代、大阪工業大学の学生だった岬さんは、孟府に作品を見てもらいたい一念で三菱コルト600の屋根に50号の絵画2枚を載せ、神戸の自宅から一路、大東市のアトリエを目指し、弟子入りした人です。

 ようやく生き証人たちと連絡が取れ、取材OKの承諾が得られたときは、小躍りして喜びました。

 ドキュメンタリーの映画監督、島田耕さんは1930年生まれ。滋賀県でお目に掛かることができました。孟府の実弟、浅野龍麿が1951年に立ち上げた映画会社「キヌタプロダクション」に演出見習いで入社した人です。この新会社の商標は孟府の彫刻をあしらおうということになり、制作する現場に立ち会っています。龍麿は、東宝争議の執行委員として職場を追われ、こうして独立プロを営むのですが、年若の島田さんも同社の争議を目の当たりにし、電柱に檄文(げきぶん)を張るのを手伝ったことがあるそうです。

 浅野孟府という人は、日記や自伝などの類いは何も残していません。プロレタリア美術運動では大阪方面のリーダー格でしたが、太平戦争中は、国策の戦意高揚映画の美術を2作までも担当します。戦後、自由が訪れ、革新府政を応援するが、終生、一切の弁解もしませんでした。

 「君ぃ…、ああいう仕事も面白いんだよ」と孟府は島田さんに漏らしたそうです。彫刻と違って、映画の撮影が終わればすぐさま壊してしまうセットですが、決められた条件の中で造形に挑むことにも面白さがあるといい、凝り性だった孟府の一面がのぞきます。あのとき、独立プロの面々は、東宝争議でクビになった人たちですが、大きな組織を離れたことは、印象派の画家たちが画室から屋外に出ていくように、伸び伸びした精神を発揮できると、孟府は貧乏プロダクションの担い手を励ましています。私は島田さんの回想を通して、孟府という作家のみずみずしい魂の片りんに触れたような気がしました。

 戦後の生活苦により孟府が1955年、夕刊紙「国際新聞」の連載小説の挿絵を描いていたとき、社屋の1階で原稿を受け取る役目をしていたのが文化部の新入社員、大阪府高槻市在住の日下宗治さんでした。島田さんとほぼ同年代、1929年のお生まれです。

 原画は手渡し。孟府は、アトリエ兼住居のある大東市から大阪市西区にあったこの新聞社に自ら持参していたことが分かります。余裕のない暮らしぶりがしのばれます。孟府は愛想もなく、いつも無表情で事務的に原画を渡してサッサと帰っていったそうです。たとえ、それだけのたわいのない一こまだけれど、孟府の芸術家仲間たちがよく回想する「温和な人」というイメージとはちょっと違います。日常の一瞬を日下さんはよく記憶してくださったと思います。

 ささいなヒントからヒントへ、それこそ芋づる式のようにして、孟府と会ったことのある人々の肉声は、少しずつ集まっていきます。“評伝の取材に終わりはない”とも言われます。

 孟府の次男、映画評論家の浅野潜さんは大阪に住んでいて、私の知人の建築家の兄貴分といった親しい間柄だったので、容易に連絡を取ることができました。しかし高齢になった潜さんは、東京にいる妹、映さんの連絡先が分からなくなっていました。嫁いで姓も変わっているはずで、思案にくれました。

 取材を続けていたある日、漫画家藤子不二雄ファンの有志が刊行する雑誌「Neo Utopia」に人形アニメ映画の監督をしていた浅野龍麿の業績が出ているのをふと目にしました。先ほど申し上げた孟府の末弟であり、龍麿の2人の娘さんたちがインタビューに応じていました。すぐに編集部に手紙を出し、連絡を待つ旨、お2人に伝えてもらいました。孟府のめい、テルさん、美代さんです。東京都内で待ち合わせし、話を聞くことができ、お2人とも父龍麿の仕事、そして伯父孟府の仕事を誇りに思っていました。この縁を機に孟府の長女・映さん、孟府の三男・磁さん、孟府のおいらに取材は広がっていきます。親族それぞれが記憶する孟府の行状のさまざまに耳を傾け、この美術家のキャラクターを少しずつ、つかんでいくことができました。

 戦前の一時期、孟府と師弟関係にあった映画「ゴジラ」の怪獣造形者、利光貞三の三男、亮さんと連絡が取れたのは、原稿完成2カ月前の2019年3月のことです。大雨の東京・渋谷のフルーツパーラーで話を聞きました。亮さんの幼いころ、上野の博物館に連れて行かれ、恐竜の骨格を食い入るように観察していた父の面影を淡々と語ってくださいました。

 孟府の親族の協力により念願の戸籍を入手できたのは、評伝の単行本のゲラが出来上がってきて、さあ初校が始まろうかという頃です。石川県金沢市出身であることが判明し、遺作集の年譜などで伝えられてきた東京・渋谷生まれという二次情報を覆すことができました。

孟府ゆかりの街を歩く

孟府の旧居兼アトリエ=2019年11月、大東市野崎3丁目

孟府の旧居兼アトリエ=2019年11月、大東市野崎3丁目

 かろうじて現存する孟府アトリエを訪ね、わずかに残る作品に出合う散策ルートを作ってみました。東高野街道のかいわいです。評伝が刊行されたことを機に、街歩きのガイド団体「大阪あそ歩」を運営する松下和史さんより、「孟府ゆかりの散策コースを作ってみてはどうか」と勧められ、催行しました。

 本日は机上の散歩となりますが、しばし、お付き合いください。

 集合は、JR学研都市線の野崎駅です。まずは野崎参りで有名な野崎観音、慈眼寺の本堂に向かって100段の石段を登り詰めます。小さなお社に至ります。南條神社といいます。戦後ほどない頃、地元の青年団がこの神社の秋祭りの宵宮において芝居「瞼(まぶた)の母」(長谷川伸原作)を奉納するに当たり、孟府に演出を頼んでいます。生涯、貧乏とは縁が切れない人でしたが、このように、お金にも名誉にもならないことを「よしきた」と気さくに引き受けています。

 孟府と演劇の関わりは古い。昭和の初めには、河原崎長一郎、村山知義らが立ち上げた「心座」の舞台美術(演出、舟橋聖一)を手掛けます。その後も「前進座」の大阪初演、そして左翼の演劇団による「太陽のない街」などの舞台美術を次々と手掛けました。

 この南條神社の境内を抜けると、すぐに慈眼寺の本堂に至ります。お堂のそばには、大阪生まれの俳人、西村白雲郷(1885~1958年)の全身像レリーフが鎮座し、ひょうひょうとした風貌で出迎えてくれます。孟府の作です。

 白雲郷は昭和の初め、高浜虚子が編纂した「俳人100傑」に選ばれています。レリーフの傍らには代表句「水涸(が)れの水にて流れねばならぬ」が刻まれています。なにやら禅問答のような作ですね。白雲郷も孟府も、この慈眼寺の住職、尾瀧一峰と親しい間柄にありました。

 尾瀧和尚の長女によると、父が年始参りなどで孟府方に出向くときに、一緒について行ったそうです。「あの家に行くと、見たこともないお菓子が出てくる。ほっぺたが落っこちそうになるほどおいしかった」と回想しています。食糧事情が悪かった戦後間もない頃の話です。妻の文子がフリルのついた愛らしいエプロン姿だったことも別世界に映ったようです。

 洋菓子と思われるその菓子の作り方を浅野方はどこで知ったのでしょう。神戸のモダニズム画家、「赤マントの朝やん」と呼ばれた今井朝路が戦前、自家特製パイの作り方について書いた随筆が残っており、小磯記念美術館のホームページ「美術館通信」が紹介しています。レシピにはメリケン粉を使うと書いてあり、時代掛かっていますね。

 大正の終わりごろ、須磨にいた今井朝路の下に、浅野孟府、そして孟府の先輩の左翼画家・矢部友衛らが訪れ、交流合宿をしていた話が「神戸文芸雑兵物語」(林喜芳著)に出てきます。ハイカラなお菓子をよく知っていそうな面々です。この合宿には、ゴム長で銀座をのし歩いたダダ詩人、ドン・ザッキーこと都崎友雄も加わっていたそうです。

 話は野崎観音・慈眼寺に戻ります。観音さんを出てすぐ南にも古刹(こさつ)があり、専応寺といいます。大阪城築城の際、石を切り出すための陣地として寺が協力したことから、担当奉行よりちょうず鉢が贈られ、今も残っています。境内には大樹が茂り、市街地のオアシスのような空間です。

 この寺の境内において、人形アニメーション「羅生門」の撮影が行われたのは1961年のことでした。人形は孟府の作。監督は、孟府の実弟、浅野龍麿です。

 寺を出ると、浅野孟府のアトリエはすぐそこ。南東の方角にあります。伸び放題に生い茂る木立の中にひっそりとたたずみ、そこに立つと、何だか不思議な力が湧いてきます。84年に病没する7カ月前まで作品づくりに精魂を傾けていました。世を去って40年近くの歳月が流れましたが、あるじなき無人の庭に、没する前年の作りかけの胸像が無造作に置かれ、ハッとさせられます。

あるじなき旧居庭に無造作に置かれている最晩年の作=2018年6月

あるじなき旧居庭に無造作に置かれている最晩年の作=2018年6月

 さかのぼれば、孟府一家が大阪市内からここ大東市野崎に転居してきたのは1937年のことでした。百姓家を手に入れて室内を改造し、根城にしています。その当時は、北河内郡四条村といいました。孟府はこの頃、陶芸に凝っていて、窯を設けるため、郊外の土地を探していたのです。孟府と弟子の利光貞三が、陶製の珍しい大型彫刻に挑んでいた様子は1940年3月20日付の朝日新聞に出ています。

 太平洋戦争が始まると、焼き物に欠かせないまきは入手できなくなり、厳しい灯火管制の下、窯に火を入れただけでスパイ行為と見なされ、陶芸はできなくなります。孟府は窯を壊して耐火れんがを金に換え、生活費に充てました。

 この頃、孟府と利光が一緒に映る貴重な写真が取材中、東京に住む孟府の長女、映さん方で発見されました。写真の台紙には「利光英三」と書かれています。貞三の誤記でしょう。利光がゴジラのひな型を製作している写真は既刊の書籍で見られますが、戦前の彼は、もう少しふっくらした感じです。確認のため、東宝で利光の部下だった怪獣造形家、開米栄三さん(2020年、90歳で死去)に見てもらいまして「間違いない」ということでした。

 孟府のアトリエには多彩な文化人が訪れています。小説家の大岡昇平、洋画家の鳥海青児もやって来ました。戦前、関西きっての文化人サロンとして、奈良市高畑町の志賀直哉邸が有名ですが、生駒山を隔てた浅野孟府方も、なかなかのものだと思いますね。

 戦後になると、弟分の彫刻家たちは、孟府方を訪問することを「野崎まいり」と呼んでいました。大正期の新興美術運動から50年余りも過ぎると、大阪彫刻界の重鎮などと呼ばれるようになります。天王寺の美術館地下のレストランで若手彫刻家たちが雑談していたときのこと。そのうちの1人で40歳ほど年若の生島豊昭さんは「孟府氏が入ってくる姿が見えて、全員たばこの火を消し、座を正したものです」と回想しています。

 孟府方の屋根が草ぶきだったことは、めいが所蔵する写真から分かりました。戦後に来襲した大型台風によって屋根は吹き飛んだので、セメント瓦ぶき、一部瓦棒ぶきになりました。この屋根の様式は、戦後の一時期だけに見られた独特のものであると、アトリエの実測調査を最近行った建築家の植松清志さんはおっしゃっておられます。片流れのデザインは孟府の好みでありましょう。室内に農家の梁(はり)の跡があることを植松さんは発見しています。

 では、名残惜しいアトリエに別れを告げ、散策コースは寝屋川の支流、谷田川に沿って歩いていきます。この河川は昔、野崎観音の参詣客らを乗せた野崎参りの屋形船が往来したそうです。

孟府ゆかりの散策コースかいわい=2019年11月、大東市緑が丘の鍋田川堤防付近

孟府ゆかりの散策コースかいわい=2019年11月、大東市緑が丘の鍋田川堤防付近

 目指すは曙町の大東市民会館です。浅野孟府作の彫刻が2体あり、屋外に1972年制作の「青年像」、ロビーには同年完成した裸婦像「大阪の女」。壁に晩年の孟府の肖像(大泉米吉作)が掛かっています。今日、孟府の名を聞いても、誰も反応しませんが、地元では特別な芸術家であることが分かります。

 彫刻「大阪の女」は、地元の大東青年会議所の発足記念として制作を依頼されたものです。第二百三世東大寺別当、狹川明俊の推挙がきっかけになったと思われます。明俊は会議所発足の記念講演を頼まれ、その打ち合わせの雑談中、世話人の若者の1人が「記念の彫刻を建立するつもりです」と伝えたところ、明俊は言いました。

 「あなたがたの街に浅野孟府という彫刻家がいますよ」

 「はっ?麻の毛布…?」

 その名を初めて耳にする若者もいました。

 お水取り31回の参籠を果たした行法練達の僧、明俊。片や、プロレタリア美術運動をけん引し、何度も官憲に拘束された孟府。両人の接点についてはまだ分かりません。ただ明俊の没後、子息の狹川宗玄師が編さんした回顧録の中に次のようなくだりがあります。

 旧制中学時代に明俊が使っていた学校の教科書の余白に、それは丁寧な筆致で映写機の略図が書かれていたそうです。サイレント映画の弁士のまねが得意だった明俊は、仏教説話のための無声映画が完成すると、弁士の役を務めたこともあったといいます。どこかモダニズムの人であったところが孟府と共通します。

 市民会館からの帰り道は、感じの良い古道、河内街道をたどり、終点のJR学研都市線・住道駅に向かいます。散策の最後に、孟府ゆかりの一作を紹介します。太平洋戦争に出征し、ニューギニアで没した彫刻家、河合芳男の裸婦像です。戦後、天王寺の美術館の前に胴体のあたりから真っ二つに折れて転がっていたそうです。孟府は縁あって修繕し、駅前のショッピングセンターに置かれることになりました。河合は藤川勇造に師事し、二科特待の腕前でした。ご清聴ありがとうございました。

【追記】

 浅野孟府の妻、文子(1908年生まれ、戸籍名ふみ子)は若い頃、東京でモデルをしており、淡谷のり子の友人だったという親族の回想は、評伝の中で少し触れた。

 文子を巡り、孟府と東郷青児が恋敵であったという逸話は2020年2月、孟府生誕120年を記念したシンポジウム(大東市立生涯学習センターアクロス主催)において三男の磁さんが初めて披露した。「東京で仕事ができないようにしてやる」と東郷にすごまれ、2人は大阪に逃れてきたという、問わず語りの親の言が記憶に残っているのだろう。孟府が下阪した理由については、プロレタリア美術運動の関西方面を強化するためだったとみる人もいる。

 一方、詩誌同人・野口豊子さんが1978年、孟府にインタビューした記録(収録、季村敏夫著「窓の微風 モダニズム詩断層」みずのわ出版)によると、「駆け落ちして女房と一緒に住みついた」と、来阪の理由について語る本人の言葉が記録されていた。磁さんの回想と重なる部分がある。

長男翼(右)、次男潜と写る孟府の妻文子(孟府長女、映さん蔵)

長男翼(右)、次男潜と写る孟府の妻文子(孟府長女、映さん蔵)

 長男翼、次男潜と並んで写る文子の写真が残る。30歳を少し過ぎた頃だろう。見目麗しく、少し勝ち気なところがありそうな人のように見える。同人誌「煙」が刊行した孟府追悼号においては、没する数カ月前、過労で倒れた夫から「お前と結婚していなければ今ごろは東京で活躍していただろう」と嫌みを言われ、不愉快であったと真っ正直に書いている。「苦労ばかりが多かった永い生活の積み重ねが、今となりましては、かえって大きな励みとなって、私に力を与えてくれております」と、追想の寄稿を求めながらも、自分へのエールになっている。たくましい人だ。

 文子は、高名な実業家の娘であることは知る人ぞ知る、公然の秘密である。野崎観音住職のお嬢さんもそれを知っていたし、大阪桐蔭高校歌の作曲家で実業家の大川真一郎氏も知っていた。戸籍には母の名前しかない。ある日、テレビに映る文子の父の姿を見て、「やっぱりお前に似てるよ~」と孟府がもらすのを三男磁は耳にしている。

 孟府の貧乏話はいろいろと伝わるが、「あの家に上がると貧困のにおいがしない」と、往年の左翼仲間の複数が回顧していた。暮らしにゆとりがなかった逸話としては、妻文子が戦後、大東市役所の戸籍事務のアルバイトをして家計を支えていたことや、彫刻を借金の形に同市三住町の「大川質店」に孟府がやって来たこと、次男潜の大学の学費は出さず、これがもとで潜は中退に追い込まれたなどの出来事はあった。しかし赤貧洗うがことしの、貧苦のどん底にあるようには来訪者の目には映らなかったようだ。孟府のとらわれのない性格にもよるのだろうが、文子の実家から少しは援助があったのかどうか。父は国内でも指折りの有名美術館の設立者である。

 日仏合弁の帝国酸素神戸支社において社内同人文芸雑誌「鞦韆―BLANKO―」の創刊に大岡昇平、浅野孟府らが携わったのは1938年のことである。フィリピンの激戦地から復員し「俘虜(ふりょ)記」で作家としてスタートを切った大岡は「東京に引っ越してくるように」と孟府に勧めた、と親族は話す。当人は乗り気だったが、文子は教育盛りの子どもたち4人の転校をよしとせず、猛反対したそうである。

 そのかいもあってか、4子はみな立派に成長した。翼は戦後の労音(勤労者音楽協議会)で李香蘭ミュージカル興業などを成功に導き、大阪万博(1970年)では電気通信館をプロデュースした。潜は夕刊紙の映画記者を経てスポーツ紙の社長に昇り詰める。三男磁は電通勤務を経てレストランのオーナーシェフをしている。長女の映は美術家・鈴木崧の秘書を経て銀行員の下へ嫁いだ。映の婚礼の日、父の友人で一陽会重鎮の洋画家・野間仁根が駆け付けている。

浅野孟府をテーマにしたシンポジウムは2016年、大東市制60周年の記念行事の一環として開かれている。彫刻は「青年像」

浅野孟府をテーマにしたシンポジウムは2016年、大東市制60周年の記念行事の一環として開かれている。彫刻は「青年像」

 孟府の下の弟で神戸の税関に務めていた三虎は早世したが、そのとき1歳だった愛娘はこの地で美容師をしている。この人も「美」と関係のある仕事だ。その下の弟・不二男(元金沢市原水協会長)は1930年代から前衛劇場に参加していた。末弟の龍麿は戦中戦後を通しての映画人である。彼ら兄弟の父・源治郎は嘉永5年(1854)の生まれ。小説家を目指したことあったという。親戚のなかには、戦後ほどなく円谷プロ入りし、大道具で優れた仕事を成した人もいる。

 「芸能一家ですね」と、褒めるつもりで親族の1人(大学名誉教授)に言ったところ、次のように笑顔で返された。「とんでもない! この一族で定年まで勤め上げたのは私1人だけですよ。額に汗して単純労働することはあまり得意でない一族でしょう」。血族のことを少しおとしめて語るところに、好感が持てた。

 取材中、孟府の告別式(1984年)の式次第を大阪市中央区の府立産業労働資料館で閲覧することができた。田中角栄、宮本顕治ら、大物政治家の右からも左からも弔電が寄せられていたことを知り、参考になった。

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