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発行者/奈良県大和郡山市・浅野善一

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ジャーナリスト浅野詠子

記者講演録)昭和初めの洋風人形劇を語る~孟府と一房

阪本一房(左)、浅野孟府(右上)、吹田市立博物館春季特別展「出口座と阪本一房」(右下)

阪本一房(左)、浅野孟府(右上)、吹田市立博物館春季特別展「出口座と阪本一房」(右下)

 (本稿は、彫刻家・浅野孟府の足跡を「奈良の声」や著書などで伝えてきた浅野詠子が2022年5月21日、大阪府吹田市立博物館の「開館30周年記念 春季特別展 出口座と阪本一房―現代人形劇の継承と発展」で「昭和初めの洋風人形劇を語る~孟府と一房」と題して講演した際の内容を修正し再構成したものです)

現代人形劇の先人9人の肖像写真が語り掛けること

 皆さん、こんにちは。街頭の紙芝居と人形芝居に精魂傾けた阪本一房さん(さかもと・かずふさ1919~2001年、通称「いっぽうさん」)の特別展がこの吹田市立博物館で開催中です。一房さんは戦後まもない頃、路上の紙芝居に打ち込みました。その後30年ほどして、念願の人形芝居専門劇場を吹田市出口町に開設します。1975年のことでした。そこはアサヒビールの旧社員寮の食堂を改装した、客席わずか30数席の劇場と聞いております。

 その出口座に一房さんらが現代人形劇の先人として尊敬し、親しみの思いを寄せた9人の肖像写真が掲げられていたそうです。本日は、その9人のうちの1人、彫刻家の浅野孟府(1900~1984年)と一房さんの心の交流を中心に話してみたいと思います。

 浅野孟府は西暦で言うとちょうど1900年の生まれ。若くして院展に入選しています。昔は日本美術院に彫刻部があったのですね。孟府はその後、洋画団体の二科に彫刻を出展し、二科の急進派の青年美術家たちと「アクション」という前衛団体を発足させ、展覧会を開いています。

 このように駆け出しの時代を申し上げますと、何だか格好のいいアバンギャルドを想像されるかもしれません。しかし現代人に「あさの・もうふ」とその名を伝えても、ほとんど反応は返ってきません。むしろブランケットの毛布が連想され、へんな名前だと思われてしまうのが関の山でしょう。

 私の名字も浅野ですが、赤の他人です。ゆかりの大阪府大東市のまちづくりの担い手から浅野孟府の一代記を本に書いてほしいと依頼され、版元を紹介して下さるということで引き受け、約2年間、取材をしました。

 浅野孟府は、あの年代の芸術家によく見られたように、実に多彩な美術に横断的に関わっています。本業の彫刻はもとより、本日のテーマである新興の劇人形を作り、自らも操り、戦後すぐの頃は食べるために百貨店のマネキンも手掛けています。戦時中は戦意高揚映画3作の特撮美術に関わり、「ハワイ・マレー沖海戦」(東宝)などで円谷英二らと一緒に仕事をしたこともありました。戦後は夕刊紙の小説の挿絵も描いています。しかし紙芝居に関係したという情報はまだ得ていません。

 一房さんは孟府より19歳年下。師弟関係というより、美術仲間の兄貴分、弟分という関係ではなかったかと思います。孟府の時代は10人きょうだいなんて珍しくありませんが、孟府は16歳離れた一番下の弟と一番仲良しでした。龍麿(たつまろ)といい、東宝の前身のJ・Oの時代からの映画人であり、戦後すぐの東宝争議で執行委員となって社を追われ、独立プロダクションを設立しました。一房さんは龍麿より3歳年下。孟府にすると、末弟の世代といったところです。

 浅野孟府はちょっと世間離れした面白いところがありました。例えば戦前、プロレタリア演劇の舞台装置を担当するのですが、弾圧がひどかった時代です。特高などの手入れがあると、仲間たちはサッとクモの子を散らすように逃げるのに、孟府はいつも最後まで残っていて、よく捕まったというのです。動作が鈍いというのではなく、親族によると、子どものときから駆けっこが速い少年。ですから大道具作りなどに熱中していたのだと思います。ねっちりと苦闘するタイプ。5回も収監されています。

 戦後も貧しい美術家でしたが、たまに彫刻が売れて、久しぶりに妻子を連れて心斎橋のレストランに出掛けたのですが、支払いの段になって、財布がないことに気づきます。道中で落としてしまったらしいのです。いつもズボンの後ろポケットに財布を入れて、ゆるゆるとして落っこちそうにしていて、盗難に遭ったこともあるそうです。家族はたまりません。貧乏なのに春風駘蕩(たいとう)なところがあって、取材をするほどに魅力的な横顔をいろいろと拾いました。

 この度の特別展の図録において「一房さんは記録魔だ」と人形劇の図書館(滋賀県大津市)の潟見英明館長が書いています。愛情あふれる言い方ですね。孟府はその反対で、散逸王というか散逸のチャンピオンというか。日記も自伝もありませんし、作品まで散り散りになっています。ですから、浅野孟府評伝を執筆する上で、人形劇のくだりについては、一房さんの記録にどれほど助けられたかしれません。

 記録魔・一房さんが書いていた人形劇にまつわる述懐の中で、特に印象に残ることは、戦後復活し、出口座の先駆的存在である大阪人形座のオリジナルメンバー、柏木茂弥が会計をしていたという、一行にも満たない記録です。

 茂弥は、出口座に掲げられた肖像写真9人のうちの1人。戦前はプロレタリア演劇にも関わり、浅野孟府の下で大道具をやっていました。青山俊一のペンネームで活動しています。この人も長い間、収監され、1943年に出獄し、軍需工場で一房さんと出会いまして、高等小学校中退の彼に演劇と美術のイロハを教えた人でした。

 たたき上げの演劇人が会計係をしていた。戦後すぐの時代に、最少規模のサイズで復活した大阪人形座の日常を垣間見るようです。誰かが実務をやらなければ組織はすぐにずっこけてしまったでしょう。引き受けた茂弥の優しさを感じます。

 記録魔の一房さんが残した述懐の中もう一つ、面白いと思ったくだりですが、活動の拠点を探していた大阪人形座が、ある人物のお陰で、大阪府河内長野市内において戦後の一時期、拠点の研究所を借りることができたというくだりです。今は南海電車を利用すればそう遠くないけれど、当時は吹田あたりからちょっと郊外。借りたのは商工会館の一室だったといいます。会館には30畳ほどのシアターがあり、一房さんらは人形劇の上演もできたそうです。高野街道あたりの人々の温情を受けて、こうした練磨の日々があって、後に出口座が花開くことになるのですね。

ある学芸員と人形作家の話

 私も河内長野市の思い出があります。あれは数年前、郷土雑誌の「大阪春秋」が河内長野の特集号を出すことになり、そこに住む人間国宝の秋山信子氏を取材してほしいという依頼がありました。人形師ですが、本日のテーマの大正期新興美術に縁のある新傾向の人形ではなくて、おひなさまとか木目込み人形とかにルーツがありそうな伝統の衣裳人形の作家です。学芸員の尾谷さんという方が随行してくれました。

 秋山邸に着きますと、先生は取材者の私に見向きもしません。もう80歳を過ぎておられましたが、安心し切って尾谷さんの顔ばかり見てお話しをされます。その上、尾谷さんの家族構成までよく知っておられ、何だか母と息子、おばとおいが話しているようにも見えました。

 そうか…学芸員の仕事とは、地元の作家とここまで人間関係を築いているのだなと思い知らされました。

 それを思いますと、内外の操り人形などを一堂に集めた、このたびの吹田市立博物館の展示なども、ここに至るまでの道のりはどれほど長いものだったかと想像します。私どもは日ごろ、美術館や博物館の展示を堪能して帰ればよいのですが、企画者、キュレーター、学芸員らの努力や労苦は会場には現れません。むしろ、そこを気付かせないところが展示の本質でしょう。

 この吹田の展示会場で幾度か頭を打たれました。私、浅野孟府の評伝において、孟府が参加していた戦前の大阪人形座の初演パンフレット、これは一房さんの著作物から引用し、出典を明記の上、転載しています。ところが吹田の特別展になんと、1935年当時の実物のパンフレットが展示されているではありませんか。

 これがまさに1次資料ですね。私が著書に掲載したのは2次資料の引用です。

 所蔵しているのは大津の「人形劇の図書館」なのです。実は、孟府評伝の取材中、私もこの図書館を訪ねて、館長の潟見さんにお話を伺いました。しかし浅野孟府の人形のことばかりを尋ねています。人形劇の図書館を名乗っているのだから、大正期新興人形劇の資料がないか、そこを聞いていない。どこか散漫で、執着が足りなかったと思います。

 それからもう一つ。このたびの一房さん特別展におきまして、孟府が昭和初年に製作した人形2体が展示されています。民話の「じいさま」「ばあさま」ですね。うち「じいさま」は、所蔵する「人形劇の図書館」で私は取材し、写真も孟府評伝に掲載しています。一房さんの没後、弟子の山下恵子さんが高槻市内の自宅でこれら人形を保管されており、山下さんの家で撮影もしています。

 「ばあさま」の人形は頭部の破損が著しかったです。私は写真に収めたものの、そのうち忘れていました。なんと、見事に修復されておりまして、この特別展で展示されているではありませんか。迫力も「じいさま」以上。いかにも孟府らしい土俗的な良い作です。妻の文子の怒った顔でしょう。どうして「ばあさま」のその後を確認しなかったのか、反省させられました。

 大正期新興美術運動を担った浅野孟府の仲間の一人に吉田謙吉という舞台美術家がおります。その人のお嬢さんが昭和の初めごろの孟府の彫刻を所蔵していると聞き、評伝の取材中に訪問しました。一通り、話を聞きまして、彫刻の正面からパチリと写真を撮って、さあ帰ろうとしたとき、謙吉のお嬢さんが言いました。

 「あの…彫刻の頭の後ろから写さなくていいのですか…」。わっ恥ずかしい…美術の素人丸出しですよね。「この人…本当に彫刻家の一代記など書けるのだろうか…」。お嬢さんはそう思ったに違いありません。

東野田のトンボ座

「トンボ座」の人形劇を見る子どもたち。動物たちの人形と操りの糸が見える=1930年ごろ、堀田穣さん所蔵

「トンボ座」の人形劇を見る子どもたち。動物たちの人形と操りの糸が見える=1930年ごろ、堀田穣さん所蔵

 では、出口座に掲げられていた現代人形劇の先人9人のうちの3人、音楽家の小代義雄(しょうだい・よしお)、彫刻家の浅野孟府、孟府の弟分の洋画家、柏尾喜八(かしお・きはち)らがメンバーとなり昭和5(1930)年、大阪市都島区の東野田で旗揚げした「トンボ座」のお話をいたします。

 小代は戦後、四條畷学園で音楽の先生をしていたそうです。彼は大正12(1923)年、東京・麻布の照明家、遠山静雄の屋敷において、伊藤熹朔、千田是也らと人形劇を上演し、大正期新興人形劇の先駆けともいわれます。彼らが「人形座」を名乗り、後に築地小劇場でウィットフォーゲル原作の社会派風刺劇「誰が一番馬鹿か?」を上演しています。

 浅野孟府は昭和2(1927)年、やはり東京のギニョール劇団「テアトル・ククラ」に参加しています。小代と孟府。この2人が大阪に住まいを移し、やがて関西における草分け的な新興人形劇を上演することになります。

 小代は左翼思想を広める運動中に弾圧され、大阪に来たという話を聞きました。孟府は、プロレタリア美術運動の大阪方面を担当するために来たという人もいます。しかし2020年、浅野孟府生誕120年の行事がゆかりの大東市で開催された折、三男の磁(しげる)さんがパネラーとして登壇し、父が大阪に来たのは、妻の文子を東郷青児と争い、東京にいづらくなって下阪したためと言っていました。茶の間で両親が昔話しをしているのを磁少年は耳にしたのでしょう。

 当時の写真を見ると、文子は断髪のさっそうした美貌のモガです。モデルをしていたこともあり、淡谷のり子と友人だったと親族が話していました。

 では「トンボ座」は築地のフランチャイズなのかと言えば、違うと思います。「トンボ座」を主宰した国田弥之輔は、土地の人です。いわばゼネラルマネージャーとかプロデューサーとか社長とかに当たる役どころでしょう。お父さんは京阪の大株主。そして大阪・中津の光徳寺の檀家でした。佐伯祐三の生家として知られていますね。国田家は佐伯の絵をたくさん所蔵していたといいます。

 このような具体的な情報を私はなぜ得ることができのかお話します。あれは1970年代の後半、晩年の孟府に詩誌の同人の一人がインタビューし、その録音テープは長年、眠っていたのですが、神戸の詩人、季村敏夫さんが丹精してテープ起こしをし、その作業中に切れてしまったテープをつなぎ、全文が「窓の微風 モダニズム詩断層」(みずのわ出版、2010年)の巻末に掲載されたのです。この本は、神戸ゆかりの竹中郁、坂本遼ら西暦1900年前後に生まれた詩人、美術家らの群像を描いています。

 この奇跡の録音テープの中で、東野田がちょっとした文化人村のような風情だったことを孟府は述懐しています。国田家は借家をたくさん持っていて、そこに絵描き志望や詩人、新聞記者らが住みついたそうです。

小山内薫原作の童話劇「三つの願ひ」を上演する「トンボ座」の座員たち=阪本一房著『大阪人形座の記録』から

小山内薫原作の童話劇「三つの願ひ」を上演する「トンボ座」の座員たち=阪本一房著『大阪人形座の記録』から

 御曹司の弥之助はそこにしゃれた本屋を開き、2階で人形劇が上演されました。奇しくも、浅野孟府が来阪前に参加していた昭和初めのギニョール人形劇団の上演もしゃれた本屋の2階。そこは東京の新宿。そうです。紀伊國屋書店の田辺茂一の世界であります。東西の新興人形劇の上演会場が似通っていたのも興味深いですね。

「トンボ座」は小山内薫が子ども向けに書いた戯曲「三つの願い」(1925年)を上演しました。人形は孟府が作ったと伝えられ、本日のレジュメの4ページに不鮮明な写真ですが載せました。実物は所在が不明です。

 舞台装置は吉田謙吉が担当しています。この時、謙吉の住まいが東京だったとしても、国田の財力からして、ゆっくり逗留(とうりゅう)させて演出に専念させたことでしょう。小山内薫のこの戯曲の初版の装丁も謙吉です。巻頭のページに謙吉は舞台装置のヒントを書き、第2幕の窓の下の植木鉢には高山植物か何かを植えるなどの細やかな指示をしています。

 当時の吉田謙吉の演劇随筆の中に、舞台装置に専心することは「観客に親切にする心」と書いてします。意外な心持ちで舞台を作ったのですね。現代映画の美術監督をしている部谷京子という人がある新聞のインタビューで、配置するタンスを役者は一度も開ける場面がなくても、衣類を入れておく、という心構えを述べていました。先人の謙吉たち、舞台の立体空間をああでもない、こうでもないと作り上げることが面白くて仕方なかったのでしょう。浅野孟府なんか特高に捕まるまで大道具をいじっていますし。

 私の素性は一取材者です。いったい「トンボ座」が東野田のどこにあったのか、特定することに血道を上げました。

 奇跡の録音テープによって東野田6丁目に存在したことまで分かりました。当時は北区であり、都島区に編入されたのは1943年以降のことです。法務局の西天満の出張所で旧土地台帳を閲覧しました。現代の土地の動きを調べようとすると、一筆一筆の追跡によっては相当な費用がかかってしまいますが、戦前の土地所有者については、もはや歴史資料なのか、国もお金を取りません。何日か通って「国田弥之輔」の氏名を見つけたときは小躍りするくらいうれしかったです。

 これで何丁目何番何号まで分かりました。現代の住居表示は東野田4丁目に当たります。文化調査であることを申し上げ、都島区役所の協力により、新しい住居表示と突き合わせ、ついに場所が特定できました。

 「トンボ座」は一体どこにあったと思いますか。京阪とJRの京橋駅の北に国道1号が走っていますが、そのすぐ北側にあったのです。大阪大空襲によって跡形もなくなってしまったけれど、あんな市街地に記憶が埋もれていました。

弾圧された新興人形劇団 

 往年の文化人村、東野田に花開いた「トンボ座」。しかし活動の記録はわずか1年半ほどで、消えてしまい、その後の事情は現在も分かっていません。

 しかしほどなく同じ大阪に昭和7(1932)年、「人形トランク座」という一座が旗上げします。座員も小代、孟府、柏尾ら「トンボ座」のオリジナルメンバーと重なります。

 座長は洋画家の小谷良徳という人でした。鳥取から星雲の志を抱いて大阪にやって来た青年美術家です。この画家、どこの美術学校に入ったと思いますか。名門中の名門、信濃橋洋画研究所の出身なんです。先生は小出楢重とか鍋井克之とか、そうそうたる陣容。現在は信濃橋交差点に碑だけが立っています。

ところが小谷は、孟府たちが張ったクモの巣に引っ掛かってしまうのです。プロレタリア美術運動への熱心な勧誘を受けまして、とうとう信濃橋を退校してしまいす。左翼運動が高じて、小谷も収監される運命が待っていました。

 このトランク座という名前。当時「トランク劇場」というのがあったことを思い起こします。劇団員がそれぞれトランク一つに大道具などを詰めて、どこでも演じ、すぐに逃げられるという逸話を残しています。

 人形劇団プークの川尻泰司が戦後の随想において述懐していたことですが、若い団員に向かって、君たちは人形劇は糸操りのマリオネットが高級だと思っているだろうが、捕まったら糸がこんがらがって逃げられやしないんだ、ああいう時代はギニョールだ!と。当時はプロレタリア演劇だけでなく、子ども向けの人形劇団もひどい弾圧を受け、川尻の著書によると、事務所の所在地や劇団の名前をよく変えたそうです。

 ですから、ひょっとして「トンボ座」も、何かの弾圧を受けたのでしょうか。ほどなく誕生した「人形トランク座」は座員がほぼ重なります。

 そして再び、今度は昭和10(1935)年、大阪の天王寺に「大阪人形座」の名でまたもや新興人形劇団が旗揚げします。音楽家の小代、彫刻家の孟府、洋画家の柏尾はいずれも「トンボ座」の流れをくむ芸術家たち。そこに20代後半の若者が入ってきました。後に東宝映画「ゴジラ」の怪獣のひな型を粘土で造形する利光貞三です。

 利光は当時、画家志望の青年です。縁あって、大東市の浅野孟府のアトリエ(旧北河内郡四条町野崎)に彫刻を習いに来るようになりました。

 この開会中の阪本一房特別展におきまして、「大阪人形座」の緞帳(どんちょう)が飾ってあります。デザイン画は小代義雄、「MARIONETTE THEATER」の文字は利光が描いたと伝わります。小代はもともと画家志望、「絵描きでは飯が食えない」と画家の父親にたしなめられて美術学校を断念、東京音楽学校に進学したそうです。

 「大阪人形座」に対し官憲から解散命令が下ったのは1940年のことでした。当時の人形たちは散り散りになりましたが、緞帳は布ということで、小さくたたまれて難を逃れたのでしょうか。戦火をくぐり抜け、座員から座員へ、一時は北野照雄や小代の自宅で保管され、やがて出口座に飾られ、一房さん没後は弟子の山下恵子さん方で守られ、ついに吹田市立博物館の所蔵となりました。人形座の証しはこのようなリレーによって継承されたのです。

 「大阪人形座」の解散後、間もなく太平洋戦争に突入、やがて敗戦を迎えます。再建されたのは昭和23(1948)年のこと。吹田市内の小代の自宅を拠点に新たなスタートを切ったのでした。思えば四半世紀前、ちょうど25年さかのぼった大正12(1923)年、新興人形劇団が旗揚げしたのも東京・麻布の民家、遠山邸でした。

 戦後ほどない頃に小山内薫原作「三つの願い」を見たという人に話を聞きました。出口座に飾られた肖像写真の1人、柏木茂弥の長女で1944年生まれのみどりさんです。

 「三つの願い」は西欧風のおとぎ話で、こんな粗筋。大木の中に閉じ込められていた妖精が木こりに助け出され、お礼に三つの願いがかなう魔法の指輪を贈ります。木こり夫婦は大金持ちになる夢を見るけれど、妻がふと「ソーセージがおなかいっぱい食べたい」と、たわいない願望を抱くと魔法がかかってソーセージがたくさん出てきます。こんなつまらんことに魔法の一つを使ったのかと夫は激怒。「こんなソーセージなんかお前の鼻にくっついてしまえ」と呪うと本当にそうなって、妻の鼻から取れない。魔法をかけて取る以外に成すすべはなくて、とうとう三つの願いを使い果たすという、ちょっと辛辣(しんらつ)なストーリーですね。

 みどりさんの話では、戦後まもない頃の柏木家ではソーセージなど食卓に上がらなかったそうです。多くの家庭がそうだったでしょう。まして昭和5年の「トンボ座」上演の当時は、ほとんどの子どもたちが見たことのない食べ物だったと思います。話の前後で、それが食品であることは観客の子どもたちにもすぐ分かるはずですが、何だかえたいの知れない食べ物。「お鼻にくっついてしまう場面、怖いと思った」とみどりさんは回想しています。何度か同じ演目を見ておられ、「学校にも一座が上演に来た」と話しておられます。

孟府と一房

 当時、この演目の人形を柏尾喜八が作っており、一房特別展の会場で鑑賞できます。やがて出口座を開設する一房さんは、吹田、北摂に伝わる民話を題材にした出し物で人形芝居、紙芝居に独自の境地を切り開いていきます。

 思えば、一房さんの兄貴分、浅野孟府の彫刻は若い頃、ザッキンとかアーキペンコとかに似ているといわれたし、孟府の先輩、矢部友衛の絵はロート旋風と評され、孟府の友人、横山潤之助の絵はアンドレ・ドラン風という褒められ方をされました。彼らが青年美術家だった大正の頃は、欧州の大家を引き合いに出しながら評価されたものです。

 一房さんの人形は誰にも似ていないかもしれません。日本人の表情をもとにこしらえた4等身の独特な人形。「ジャガイモみたい」と弟子の山下恵子さんは言います。1970年代、テレビのブラウン管の人形劇全盛時代を知っている子どもたちは、見たことのない人形たちを出口座で見たのでしょう。魂をわしづかみにされるような。そこは子どもたちにとっての吹田の原風景かもしれません。

 一房さんが開拓した民話の人形芝居ですが、シナリオ作りのために採集したのではなかったことを、このたびの一房さん特別展を特集した「吹田市立博物館だより」において弟子の山下さんが明らかにしています。

 先月29日、同博物館の藤井裕之学芸員は「歴史講座 詳説! 出口座と阪本一房展」のテーマで講演されましたが、その中で、一房さんがある日、自治会の役員になったとき、地元の民話を集めてみようではないかと提案したというのです。今日でいう、まちづくりとか地域資源に関係してくる話だと思いました。

 シナリオのためだけに民話を採集していたら、地味なものはどんどん捨てられていったかもしれません。そうでなく、地域で共有するという目的がありますから、深くて広い土壌から掘り起こされた民話群の中から、人形劇上演の候補を選んだのでしょう。

 浅野孟府の評伝を取材中、一房さんと孟府の貴重な交流を物語る資料が見つかりました。孟府が他界したのは1984年のことであり、京都の文学同人誌「煙」がその没後2年ほどして浅野孟府追悼号を刊行し、寄稿した友人や弟分らの追悼文の中に阪本一房さんの一文が掲載されていました。

 一房さんは、出口座が旗揚げした頃の70年代後半を回想しています。大東市の孟府から電話がかかってきて、自宅敷地の納屋を片付けていたら人形が4体出できて「出口座で飾ってみる?」という話でした。一房さんは野崎(大東市野崎3丁目)まで素っ飛んで行ったと述懐しています。いかに孟府の人形を敬愛していたかが分かります。

浅野孟府作、人形アニメ映画「羅生門」の鬼=浅野詠子著「彫刻家 浅野孟府の時代1900―1984」の表紙から

浅野孟府作、人形アニメ映画「羅生門」の鬼=浅野詠子著「彫刻家 浅野孟府の時代1900―1984」の表紙から

 人形のうち1体は、1963年、弟の龍麿が監督をした人形アニメ「羅生門」の鬼であり、三男の磁さんが所蔵しています。一房さんは、出口座の舞台の袖のところにプラスチックのケースを作り、孟府の人形たちを飾ったそうです。

 そこへ俳優の高橋正夫が神戸からやって来ました。演劇仲間では「ショーやん」の愛称で呼ばれていました。「孟府さんの人形を見られただけでも来たかいがあった」と高橋はもらし、その談を一房さんが追悼文の中で再現しています。孟府の美術作品を敬愛する仲間の様子が伝わってくるようです。

 ショーやんは戦後の1951年、孟府たちと大阪小劇場というグループをつくり、活動は短期間だったかもしれませんが、チエーホフなどを上演しています。なんと、そこに昭和5年(1930年)、東野田で旗揚げした「トンボ座」の主宰者、国田弥之輔が参加しているではありませんか! それに戦前の「大阪人形座」で照明を担当した小林さんも。戦禍で人も人形も散り散りになったけれど、仲間たちが集まってきました。

 高橋正夫はその後も演劇活動を続け、1970年代には新劇の原点に戻ろうと有志と「原点の会」をつくり、岩田直二、新屋英子らと大阪で活動しています。年は取っても心が若々しい現役ぶりが浮かびます。

 同人誌「煙」の孟府回想の中で阪本一房は、孟府宅に人形を返しに行った日のことを書いています。人形に関わったきっかけは、佐藤春夫に勧められたからだと孟府は漏らしていたというのです。

 えっ…あの大詩人?と、意外に思われる方が多いと思います。あれは、かの大正期新興人形劇が東京・麻布の遠山邸で上演されたときからさらに数年さかのぼった大正6年(1917)のこと。二科展の9号室に新傾向の洋画が並び、そこには佐藤春夫が描いた「上野停車場付近」という作品が掲げられていました。同じ会場に、後に未来派美術協会を首唱して未来派展を開いた奈良市出身の普門暁、そして二科急進派の展覧会を浅野孟府らと開くことになる神原泰の作品もあったそうです。神原の晩年の随想(横山潤之助画集への寄稿)によると、有島生馬の計らいだったといいます。

吹田市立博物館の「出口座と阪本一房―現代人形劇の継承と発展―」ちらし

吹田市立博物館の「出口座と阪本一房―現代人形劇の継承と発展―」ちらし

講演会、人形劇、紙芝居上演、ゆかりのまち歩きなど、多彩な行事を繰り広げた吹田市立博物館特別展「出口座と阪本一房」ちらし裏面(会期2022年4月23日~6月5日)

講演会、人形劇、紙芝居上演、ゆかりのまち歩きなど、多彩な行事を繰り広げた吹田市立博物館特別展「出口座と阪本一房」ちらし裏面(会期2022年4月23日~6月5日)

 佐藤春夫は昭和の初め、人形に凝っていた記録があります。昭和2年(1927)にはラリルレロ玩具製作所の設立発起人の1人となり、浅野孟府、尾形亀之助ら新興美術運動の担い手たちに児童向けの木製玩具を作らせ百貨店で展示即売会をしています。

 そこに詩人のサトウ・ハチロウも加わり、サトウの戦後の随想にキリンの人形は赤いマフラーを巻いていた、カバの人形はよだれ掛けをしていた、吉田の謙ちゃん(吉田謙吉)は泥棒の人形を作ったと書いていました。佐藤は昭和4年にもL・L・L玩具制作所をつくり、孟府が所長だったという情報もあります。

 「どこの佐藤君かと思った…」という一房さんのひょうひょうとした回顧談は、堀田穣さん(京都先端大学名誉教授)が記録しています。何より、出口座に掲げられていた現代人形劇の先人9人全員の氏名を知ることができたのは、堀田先生の研究と記録のおかげであります。

 戦前の「大阪人形座」のメンバーが世を去ってから何十年かの歳月がたちました。小代義雄の面影は、演劇人の柏木茂弥の長女みどりさんから聞き取り「和製ベートーベンみたいなすてきな人やった」と漏らしていました。利光貞三については、次男の亮さんをはじめ、ゴジラの撮影時に部下だった開米プロダクション会長に聞き取りしています。

 柏尾喜八と接したことのある人物はただ1人だけ出会うことができました。近鉄布施駅のガード下で居酒屋「三平」を営む主人で、若い頃は画家志望だったそうです。天王寺の美術館地下の研究室に学び、私淑する柏尾にどうしても絵を見てもらいたくて、阪急沿線に住んでいた柏尾のアトリエを訪ねたそうです。あと2人、俳優の多田俊平さんと照明の小林敏夫さんにはまだ親族縁者の誰にも話が聞けていません。

  本日は出口座に掲げられていた肖像写真の1人、彫刻家浅野孟府と一房さんにまつわる雑多なよもやま話となりました。ご清聴ありがとうございました。

読者の声

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