郡山城跡表示「県史跡」のまま 国史跡指定から2年 奈良県大和郡山市
国史跡に指定された後、2年間、表示が「県指定史跡」のままになっている郡山城跡入り口の案内板=2024年10月25日、奈良県大和郡山市、浅野詠子撮影
2022年11月、念願の国史跡となった奈良県大和郡山市の郡山城跡。指定から2年を経た今も入り口の案内板の表示は旧来の「県指定史跡」のままだ。設置者の県文化財課は「奈良の声」の取材に対し「撤去が必要なことは認識していた。2024年度中に撤去する」と話した。
郡山城は天正年間、筒井順慶が築城を始め、天正13(1585)年、豊臣秀吉の実弟、秀長が大和、紀伊、泉を領有して入城した際、大規模に整備した。1960年に県史跡に指定された。市によると、2023年度は26万8000人(推計)が城跡観光に訪れた。
国史跡の管理団体で城跡の整備を進める大和郡山市の市まちづくり戦略課文化財保存活用係は「昨年から撤去が必要なことを認識し、県と協議し、県は撤去に向けた手続きを進めている。城跡の整備基本計画を2025年度中に策定するので、この中で総合案内的な看板の在り方を探る」と話した。一時的に文字表示の部分だけを修正することも可能ともした。
案内板の表示が旧来のままになっていることに対する指摘は「奈良の声」の取材を受けるまでなかったという。
現在の案内板は城跡の入り口に当たる追手門(復元)の東約50メートルの民有地に立っている。高さ約1.8メートル、解説の文字板は約1.2メートル四方。撤去に当たっては国史跡の現状変更の手続きが必要という。
国史跡の指定を受けると、石垣の修繕などに最大で2分の1の国庫補助が付くほか、県の助成もあり、市町村の負担は総事業費の35%程度となる。県内では、高取町の高取城が1953年、宇陀市の宇陀松山城が2006年、国史跡になっている。内堀の景観も含め歴史的評価が高い郡山城跡が国史跡指定を受けた当時、上田清市長は「市にとって長年の悲願が現実となった」とコメントを発表している。