市民が平和誓い、思い語る 奈良で日中不戦の集い
日中不戦の集いを締めくくった牧志徳さん(正面中央)の島歌と平和の歌=2024年12月13日、奈良市大安寺1丁目の県人権センター、浅野詠子撮影
87年前の1937年、旧日本軍によって当時の中国の首都、南京が陥落した12月13日を「日中不戦を誓う日」と定める奈良市民有志らが12月13日、同市大安寺1丁目の県人権センターで「心に刻む日中不戦の集い」を開き、日ごろ各方面で平和運動などに携わる人たちがスピーチ、平和への思いを語った。約60人が参加した。
登壇した奈良市民、八木健彦さんは、県域水道一体化に奈良市が参加しないメリットを伝える住民運動に携わった。現在は、自宅近隣の京都府精華町の自衛隊・祝園弾薬庫が増強される動きを警戒し「長射程ミサイルの保管庫となって暮らしが脅かされる」と反対集会の世話人などを務める。
八木さんは今年11月、中国湖南省を旅し、同国の終戦日は日本軍が中国政府に対し公式に投降の調印をした8月21日であることを、受降記念館という施設を訪問して初めて知ったという。
「明治以降、日本人には中国に対する優越意識があり、中国に敗北したことを認めたがらず、加害を否認することとも結びつき、対米隷属意識と裏腹の反中嫌中意識につながっているのではないかと、日ごろ考えていた。記念館で降伏調印の現場を見定めたことは大きな体験になった」と語った。
同じ奈良市民の「奈良―沖縄連帯委員会」代表の崎浜盛喜さんは11月25日、台湾有事に対処する日米共同作戦を巡り、日米が南西諸島からフィリピンの二正面作戦で進めているとのニュース記事を知り、がくぜんとしたと話した。
ナチス・ドイツ時代のヘルマン・ゲーリングの言葉を引き「国民に戦争をさせるのは簡単。外国から攻撃されていると説明するだけでいい。平和主義者に対しては、愛国心がなく、国家を危機にさらす人々だと公然と非難すればいい。ヒトラー政権のナンバー2はそのように言ったのだ」と力を込めた。崎浜さんは白旗を手に掲げ、戦争をさせない、しない、の意思表示をしたいと語った。
生駒市民の加来洋八郎さんは1972年、田中角栄首相が訪中し、日中共同宣言の調印が行われたその日、全日本港湾労働組合の訪中団の一員として延安市にいたという。当時28歳。周恩来首相が語った「日本の民衆も中国の民衆も同じ被害者。ごく少数の軍国主義分子と広範な日本人民とを区別して考えなければならない」との言葉が脳裏に焼き付いている。
加来さんは「日清戦争で日本は巨額な賠償金と領土を得た。日中戦争による賠償請求を中国が放棄したことにより、日本の公益は大きかった。日中共同宣言の中身をもっと知ろうではないか」と呼び掛けた。
集会決議は、原子力災害の問題を訴え続ける奈良市民、堀田美恵子さんが読み上げ「政府は有事の際に先島諸島(沖縄県)など12万人の九州などへの避難計画を進めているが、攻撃を受ける前提であり、見殺しの計画ではないか。この12月に日本原水爆被害者団体協議会にノーベル平和賞が贈られた。政府が拒む核兵器禁止条約批准への大きな1歩にし、大軍拡をやめさせよう」とアピール。奄美・加計呂麻島出身の牧志徳さんが島唄と平和の歌を三線を弾きながら歌い、集いを締めくくった。