関西広域)新興人形劇の草分け小代義雄の青年期判明、コーラスに参加 栃木の美術館に写真 堀田名誉教授が発表

1917年、「東京パストラール・ソサイティ」のメンバーらと写る小代義雄(前列右から2人目)。左隣が川上澄生、右隣が伊藤熹朔=鹿沼市立川上澄生美術館提供
昭和初めの関西で新興人形劇の草分けとされる小代義雄が、青春時代に当時一世を風靡(ふうび)した新劇の舞台裏でも歌った東京のコーラスグループに参加していたことが、栃木県鹿沼市立川上澄生美術館に所蔵されている写真から分かった。京都先端科学大学名誉教授、堀田穣さんが月刊誌で発表した。小代の青年期は謎に包まれていた。
「子どもの文化」2026年6月号に論考「版画と人形劇 紙芝居名人阪本一房の師匠 小代義雄の青春時代が判明」として掲載された。
小代は東京音楽学校(現・東京芸術大学)声楽部を卒業し、声楽家として活動する一方、1930年から人形劇団「トンボ座」(大阪市都島区東野田)、「大阪人形座」(同市天王寺区)で活動。その仲間に大正期新興美術運動の担い手で彫刻家の浅野孟府、戦後の東宝映画「ゴジラ」の怪獣ひな形を製作した利光貞三らがいる。国家総動員体制により解散を命じられるまで、子ども向け洋風おとぎ話などを各地で上演した。
写真は、川上澄生が青山学院高等科の学生だった時代に友人たちと始めたコーラスグループ「東京パストラール・ソサイティ」メンバーら10人の集合写真。グループは同科の学生らで構成、写真裏側の各人の署名の中に小代の名前があった。1917年、川上がカナダに渡航する前に撮影された。やがて川上は高名な版画家となる。
同美術館によると、「東京パストラール・ソサイティ」は芸術座の舞台裏で賛美歌を四部合唱したことがある。また、沢田正二郎率いる新国劇の旗揚げのときには、バックコーラスとして活動した。堀田さんは、小代がその一員であることを「青山学院五十年史」(1932年)でも確認した。
五十年史には、小代が同科学生らと絵画グループ「クロバ会」をつくり、回覧雑誌を出していたことも記録されていた。同会には後に洋画団体二科会会長になる東郷青児も参加していた。
美術館によると、小代の父為重は洋画団体白馬会の作家。青山学院中等科で美術指導に携わっていた。美術館の調べでは、川上は為重から鉛筆写生、木炭による石膏写生などの指導を受けており、川上の日記には、小代父子と一緒に昼ご飯を食べたことが記されている。

2023年の特別企画展「川上澄生と音楽―声楽家を目指した青春」図録。小代の青春時代の写真が掲載されている
新しい発見もあった。写真の小代の右隣に、後に舞台美術家として活躍する伊藤熹朔が写っていることに堀田さんは気が付いた。伊藤は実弟の俳優、千田是也らと共に、近代新興人形劇の草分け的な上演をした人物。伊藤らは1923年、関東大震災直後の東京・麻布の民家で人形劇を上演した。小代もこのグループに参加していた。
堀田さんは千田の自伝を確認、伊藤が青山学院に少なくとも2年間在籍し、人形劇作りや木版画制作、木彫りなどにいそしんでいたことを知った。
「音楽と美術に親しんだ若き日の小代の歩みが、やがて昭和初めに大阪で花開く新興人形劇団の活動素地になっていた可能性がある」と、堀田さんはみている。
小代らを師とし「大阪人形座」の精神を戦後、継承して人形芝居小屋「出口座」(大阪府吹田市)を主宰した阪本一房の歩みを堀田さんは探ってきた。しかし小代の青春時代はほとんど分からなかったという。
堀田さんが写真の存在を知るきっかけとなったのは同美術館からの問い合わせ。美術館が2023年の特別企画展「川上澄生と音楽―声楽家を目指した青春」(鹿沼市制75周年・栃木県誕生150年記念)の図録に写真を掲載するに当たって、どの人物が小代か教えてほしいと尋ねられたという。
小代は1933年、大阪メーデーに参加したことで検挙され、網島署に長期間留置されていたことが、治安維持法犠牲者の名簿作りを進める柏木功さんの調査にある。このときは妻や幼い子供まで留置された。勤務先の学校に迷惑をかけてはいけないと退職したという。
その後、小代は大阪府四條畷市の私立四條畷高等女学校に音楽教師として迎えられ、演劇や鼓笛も指導した。戦後は「大阪人形座」の再興に努めた。柏木さんの父も、そこの団員だった。
謎が多かった小代の青春時代について堀田さんは次のように話した。
「戦時下の日本で左翼は秘密結社化しており、仲間同士もスパイではないか、との疑心暗鬼にかられて、容易に自身の経歴を明かすようなことはなかったはずだ。そのため、小代の前歴もまったく知られることがなかった。愛弟子の阪本一房さんさえ、あまり知らされていなかった。それがこのたび青山学院で青春時代を謳歌していたことが分かり、何だかホッとする思い」
大阪人形座が誕生する背景については「小代の父親が黒田清輝などと共に白馬会に集っていた洋画家だったことは、とても面白いことだ。しかし今回の発見で最も重要なのは、近代新興人形劇の黎明(れいめい)期に、伊藤道郎・伊藤熹朔・千田是也の3兄弟が主導し、そこに有象無象の若者たちが手伝ったというイメージを越えて、少なくとも小代と熹朔は青山学院の同窓であり、小代はただの野次馬的な参加ではなく、同志的に参加していたことが実証できた。だからこそ、弾圧を逃れて大阪に移った小代や浅野孟府らは、大阪人形座を設立したのだろう」と話す。

1936年、大阪市内で糸あやつり人形のファッションショーを行う大阪人形座のメンバー。左から3人目が小代義雄=堀田穣・京都先端科学大学名誉教授提供
筆者情報
- ジャーナリスト浅野詠子
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