ニュース「奈良の声」のロゴ

地域の身近な問題を掘り下げて取材しています

発行者/奈良県大和郡山市・浅野善一

最新ニュースをメールで受け取る【無料】

ジャーナリスト浅野詠子

2002年、奈良・1種低層住専地域の市美術館計画頓挫 公聴会で複数が反対意見 建築審査会2度開催も継続審議 市保存の記録で明らかに

奈良市の美術館計画が頓挫した最勝院跡地=2020年9月、同市高畑町

奈良市の美術館計画が頓挫した最勝院跡地=2020年9月、同市高畑町

 奈良市が美術館建設を掲げ2000年6月、5億8600万円で取得した同市高畑町の土地が20年間、何も利用されていない問題で、市が美術館建設に向けて2001年に開いた公聴会と建築審査会の記録が市に保存されていた。それによると、公聴会では複数の利害関係者が反対意見を述べ、建築審査会の審議は2度にわたって行われたが結論に至っていなかった。計画そのものや進め方に課題があったことをうかがわせる。

 市は「文化施設整備事業」の名目で1997年、同所の民有地約2400平方メートルと建物(元興福寺子院の最勝院)を市の用地買収機関、市土地開発公社(2013年解散)に5億4400万円で買収させ、2000年6月、美術館建設を掲げて5億8600万円で公社から買い戻した。美術館には市出身の洋画家絹谷幸二氏から作品の寄贈を受けて展示する計画だった。

 美術館が計画された土地は、都市計画区域の中でも建築規制が最も厳しい第1種低層住居専用地域に当たり、原則、美術館を建てることはできない。このため大川靖則市政(当時)は、住環境を壊さないなどの条件で認められる特例の開発を目指し、利害関係者に対して建築基準法が要請する法定の公開聴取を行い、美術館開館に向けて要件となる建築審査会の同意を求めていた。

 記者は、この公聴会と建築審査会の記録を開示請求。市はことし10月9日付で開示した。

実施設計、建設費計上が先行

 利害関係者は計画地の周辺住民や納税義務者ら44人。第1回目の公聴会は2001年7月、同市紀寺町の市立飛鳥公民館で開かれた。会場には美術館の立面図などが張り出されていたものの、参加者それぞれに説明資料を配布しておらず、「完成のだいたいの、何も見せてもらわんと分からへん」などの苦情が出た。

 市は公聴会の開催を平日の金曜日午後2時からと定め、「働いている人はまず来れない」との不満も会場から出ていた。形式的な参加として処理しようとしていたことがうかがえる。

 こうした問題点を裏付けるように、市は公聴会に先行して着工に向けた作業を進めていた。公聴会の1年以上も前の1999年度、市は約2000万円の費用を掛けて美術館の実施設計を終えていた。公聴会での市の答弁からそれが分かる。さらに、2000年3月の定例市議会で「仮称最勝院美術館建設事業費」として5億2700万円を提案、うち1億1200万円を2000年度一般会計当初予算案に計上し、可決されていた。

 近隣住民に十分な情報提供が行われないまま、計画は着々と進んでいたことになる。設計は建築家の安藤忠雄氏を起用していた。非木造で半地下のガラス壁面、瓦屋根にすることを決め、安藤氏は2回ほど現地を訪れていた。

 2回目となる公聴会は、2001年10月に開かれた。市の開示文書によると17人が参加し、発言した9人のうち7人が「非常に中途半端の大きさで、こういう所に無理に形で押し込んだなという印象」などの反対意見を述べていた。もともと行政が厳しい開発規制を定め、その上に成り立っていた静かな環境を選び、土地を買って転居してきた人も反対した。

 賛成意見の表明は2人だった。うち1人は飛鳥地区自治連合会長が同連合会の賛成意見として述べ、文人や画家とゆかりが深い高畑町にふさわしい文化施設の新設を歓迎した。

 利害関係者は蚊帳の外であり、公聴会に出頭して発言できる建築基準法上の権利を行使するには著しく不利な状況にあったことが分かる。

土地買収経緯に質問

 土地を買収する前に美術館の具体的な計画はあったのかどうか、第1回の公聴会で利害関係者が質問していた。

 公聴会の参加者が「用地を買収する前に絹谷さんの美術館を建てるということが決まっていたということですね」と質問すると、市文化振興課の課長は「まあ、同時ぐらいですね」と回答したため、再び同じ参加者が「同時ぐらいということはないでしょう。どっちかでしょう」と問うと、「はい」と同課長は答えた。

 再び同じ参加者は「今のお話でしたら以前に、もういわゆる絹谷さんの建物を建てるということを前提にあの用地を買収したと」と尋ねると、今度は「時期的にそう変わりはないです。はい。いや…あの…その…なにゆえ建てたかという部分については以上でございます」と答えている。説明になっていなかった。

 市議会の議事録によると、土地開発公社による土地買収の半年後、1997年9月定例市議会で、議員が開発の内容について市文化振興課から「白紙」であると聞いていると質問をすると、大川市長は「文化的な事業に活用する」と述べるにとどまっている。公聴会で市が絹谷氏の美術館を建てると決めた時期と、土地を買収した時期は「同時ぐらい」と説明したことと矛盾する。

 公聴会を踏まえた建築審査会(岩崎弘会長=当時=、7人)の審議は2001年7月に1回目、同年11月に2回目が行われたが、いずれも結論が出ず、継続審議となった。その4カ月後、大川市長は2002年3月の定例市議会で「計画見直し」を発表。計画を白紙に戻した。

 建築審査会委員の1人は「どうしても美術館を建てなければいけなかったことを市は審査会で説明する必要ある」と審議で述べていた。岩崎会長が「住民に対する説明が弱い」と市に忠告する一幕もあった。

 奈良市建築指導課は「建築基準法48条(用途地域の特例的な開発など)に関わる許可申請の公文書は永年保存であり、それに付属する文書として公聴会の記録は今日まで保存している。建築審査会の記録は通常、翌年の末年まで保存するが、継続審査となっていたので残されていた」と話している。 関連記事へ

読者の声

comments powered by Disqus