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発行者/奈良県大和郡山市・浅野善一

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ジャーナリスト浅野詠子

探る)取り壊された元興福寺子院の庫裏、元禄期の可能性残していた 2000年、奈良市が美術館計画

2000年に取り壊された旧最勝院の庫裏(正面)。元禄の銘を刻んだ鬼瓦も写る。記者の指摘で今月2日、旧最勝院を紹介する市ホームページの文化財のコーナーに写真が追加された=市ホームページから

2000年に取り壊された旧最勝院の庫裏(正面)。元禄の銘を刻んだ鬼瓦も写る。記者の指摘で今月2日、旧最勝院を紹介する市ホームページの文化財のコーナーに写真が追加された=市ホームページから

奈良市が開示した絹谷幸二氏の美術館のデザイン画(市文化振興課によると、安藤忠雄氏によるものと推察される)。奥の細長い建物の所に庫裏、座敷棟があった

奈良市が開示した絹谷幸二氏の美術館のデザイン画(市文化振興課によると、安藤忠雄氏によるものと推察される)。奥の細長い建物の所に庫裏、座敷棟があった

固く門を閉ざす奈良市指定文化財、旧最勝院。市内有数の観光地にありながら案内板がない=2021年2月6日、同市高畑町

固く門を閉ざす奈良市指定文化財、旧最勝院。市内有数の観光地にありながら案内板がない=2021年2月6日、同市高畑町

 奈良市が2000年、美術館建設を目的に取り壊した同市高畑町の元興福寺子院・旧最勝院の庫裏と座敷棟が江戸時代元禄期(17世紀後半)の建築の可能性も残していたことが、市教育委員会文化財課への取材で分かった。当時の解体の過程で判明していた。玄関、表門、塀重門(いずれも江戸時代)は保存され、翌年、市文化財に指定されている。

 美術館建設は、本来用途が大きく制限される第1種低層住居専用地域の土地を取得して計画されたこともあり、結果的に頓挫。土地が現在まで20年間、何の利用もされていないという問題を発生させている。

 最勝院は明治初年の同寺荒廃後、民間人の手に渡り、住まいになった。美術館の計画は3代前の大川靖則市長のときに立てられた。市は「文化施設整備事業」の名目で1997年、市の用地買収機関、市土地開発公社(2013年解散)に敷地約2400平方メートルと建物を先行取得させ、2000年、同公社から5億8600万円で買い戻した。市出身の画家、絹谷幸二氏の美術館を計画し、設計に安藤忠雄氏を起用していた。

 市教委文化財課によると、先行取得後の1997年11月、庫裏の屋根最上部(大棟)の南北両端から元禄8(1695)年の銘を刻む鬼瓦が見つかった。当時市は、市内の建設会社に実測図面の作成を委託しており、報告書に鬼瓦についての記載がある。

 これより以前の1978年、県教育委員会文化財保存課は興福寺の子院調査を行っていた。旧最勝院の庫裏は、幕末ごろに大掛かりな改修があったことを同課は突き止めたが、建立年代は言及せず、座敷棟にいたっては明治か大正の建立と推定していた。

 市は美術館建設に当たって、絵画を所蔵する上で非木造の新築が良いと選択し、庫裏と座敷棟を取り壊した。市教委文化財課は「県の文化財調査報告書が旧最勝院の庫裏や座敷棟について、特別の価値を見いだしていなかったことも解体につながった」とみている。

 県教委の文化財調査が明治か大正かと判断した建物に対し、新たに確認された鬼瓦の存在をもとに元禄の建物と断定するには無理があると市文化財課は考察した一方、「庫裏と座敷棟は幕末ごろ同時に建てられたのではないか」と推定していた。

 ところが実際に解体してみると「庫裏、座敷棟ともに元禄期の建築である可能性を残していた」と、現地で立ち会った市文化財課担当者は話す。「屋根には、当初のものではないかと思われる古い桟瓦が使われていた。桟瓦は1674年の発明とされ、三井寺(滋賀県大津市)でふかれたと伝わり、最勝院で使われたのは早すぎるように思うが、ありえなくもない」

 さらに、座敷棟の屋根が上に反り上がった「むくり屋根」になっていることに同担当者は注目し「近代に流行するスタイルのようにも思えたが、江戸初期の桂離宮の古書院にも同様の屋根は見られ、元禄の奈良にあってもおかしくない」。桟瓦とむくり屋根。「可能性としては高くないが、鬼瓦銘が建築年代を示している可能性は排除しれきれないと考えるに至った」と話す。

 解体時、せめて報告書にまとめたいと、この担当者は美術館新築の担当課に提案したが、採用されなかった。

解体した庫裏、市ホームページに写真追加

 市教委文化財課は今月2日、旧最勝院を紹介する市ホームページの文化財のコーナーに、解体された庫裏の写真を追加した。それまでは玄関や表門(市指定文化財)の解説にとどめていた。市が自ら取り壊した庫裏の説明を省略するのは適切でないと、記者が指摘したことに対応した。

 同課が旧最勝院について初めて市のホームページで紹介したのは2014年。以来約7年ぶりの改訂となった。表門から見た、ありし日の庫裏がくっきり写っている。解体の1カ月ほど前、市の委託を受けた写真店が撮影したという。

 興福寺の最盛時は、数多くの子院が立ち並んでいたが、明治初年の廃仏毀釈(きしゃく)でほとんどの建物が失われた。同課によると、他の子院とは別格の旧一乗院は唐招提寺に移築されたが、鮮明な形で、旧地に、残っているのは、奈良市登大路町の旧世尊院と旧最勝院だけという。

 庫裏と座敷棟の取り壊しを巡っては、第1種低層住居専用地域での美術館建設に当たり、建築基準法に基づいて当時開かれた公聴会と建築審査会でも、疑問の声が上がっていた。

 市が開示した公聴会の記録によると、住民から「今回の推進の手順がね、まず歴史ある建物が取り壊されることから始まっている」などの声があった。建築審査会の議事録(市保有行政文書)には「どういう理由で庫裏、座敷棟を撤去したのか。その価値判断はどうなっているのか」とただす委員の発言が残っている。

 公聴会、建築審査会ともに市側の説明は、主に県教委の調査を踏まえたものだった。

 跡地の利用について市文化振興課は「予算案を提案する3月議会のことを現時点でお答えすることはできないが、今年度同様、新年度も維持管理に伴う経費のみを要求すると考えている」と回答した。

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