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発行者/奈良県大和郡山市・浅野善一
浅野善一

大和郡山市洞泉寺町、元遊郭の伝統的木造建物複数が取り壊しの見通し 県建築士会支部「記録だけでも」と実測調査

元遊郭の伝統的木造建物が立ち並ぶ町並み=2016年12月22日、大和郡山市洞泉寺町

元遊郭の伝統的木造建物が立ち並ぶ町並み=2016年12月22日、大和郡山市洞泉寺町

県建築士会郡山支部による、元遊郭建物の実測調査=2016年12月10日、大和郡山市洞泉寺町

県建築士会郡山支部による、元遊郭建物の実測調査=2016年12月10日、大和郡山市洞泉寺町

 奈良県大和郡山市洞泉寺町の登録有形文化財の元遊郭、旧川本家住宅の周辺で、同じ元遊郭の伝統的木造建物が複数、取り壊される見通しであることが分かった。いずれも空き家か人が住んでいない状態になっており、放置できなくなっているものとみられる。県建築士会郡山支部(徳本雅代支部長)は、建物が取り壊される前に実測調査を行い、記録を残す取り組みを進めている。

 城下町だった市中心部に残る、江戸から昭和にかけての歴史的建造物は減り続けており、同支部は保存活用に向けた対策の必要性を訴える。

 市史によると、洞泉寺町の遊郭の歴史は、近世郡山藩が成立した江戸初期にさかのぼる。元和3、4(1617、18)年ごろ、同じ城下町内の雑穀町から移された。同7(1621)年、士風に悪影響があるとして取り払われたが、その後、再び遊女町に戻り、幕末には6軒が店を並べた。

 1995年県発行の「ならの女性生活史 花ひらく」によると、明治の本県には、奈良町と郡山町に合わせて4カ所の公認された遊郭があり、洞泉寺町はその一つ。同書に収められた、洞泉寺町の遊郭経営者の家に生まれた人の証言によると、昭和32(1957)年の売春防止法施行に伴い、遊郭が閉鎖された当時は14、15軒が営業をしていた。閉鎖後は、貸し座敷や麻雀店にしたり、大学生に間貸しするなどの転業をしたという。

 県建築士会郡山支部によると、遊郭だったとみられる建物は現在5軒。建物は軒を連ねるか、近接するかしており、同町の歴史的町並みを形成する要素になっている。

 このうち、旧川本家住宅は市ホームページによると、大正13(1924)年の建築で木造3階建て。格式の高い豪壮な造りで、近代遊郭の屋敷構えを知ることができる貴重な近代和風建築という。市が保存を目的に買収し、平成26(2014)年、国の登録有形文化財に登録された。まちづくり、観光、人権教育などの拠点としても活用されているという。公開に向け、現在、耐震工事が行われている。

 一方、残る4軒は、3階建てが2軒、2階建てが2軒。4軒の土地所有者は同じで、建物の所有者はそれぞれ別にいる。同土地所有者に近い関係者は「奈良の声」の取材に対し、「3軒は取り壊しを決めたと聞いている」などとした。

 郡山支部の調査は、土地や建物の関係者らの了解を得て、先月23日に2階建ての1軒、今月10日に3階建ての1軒を対象に行われた。間取りが分かる平面図などを作成する。

 調査によると、2階建ての方は大正時代ぐらいの建築。細かく仕切られた部屋にはそれぞれ電気メーターが付いていた。遊郭閉鎖後、学生らに貸していたことの名残という。

 今月10日の調査には、同支部の会員のほか、県建築士会の県地域文化財建造物専門家(ヘリテージマネージャー)の養成課程を修了した建築士も協力、合わせて14人が参加した。参加者は、薄暗い室内で足元を確かめながら、懐中電灯や巻き尺を手に建物内を計測していった。建物内は、3畳と床から成る小さな部屋に分かれていて、遊郭の平面的な特徴を記録できたという。

 徳本支部長は「旧川本家住宅が来年には公開される中で、周辺の建物がなくなるのは残念でならない。残したいが、だめなら建物を実測し、記録を残すことにした。次々と壊れていく城下町郡山の歴史的建造物の実情を知ってもらいたい。活動を町並み保存につなげたい」と話している。

 近所の60代の女性は「建物は大分古い。誰も住んでおられない。保存するとなると手入れも必要。残すのは難しいのでは」と話した。一方、年配の男性は「なくなるのはもったいない。洞泉寺町の景観としては寂しい」と惜しんだ。【続報へ】

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