名刺に「胎内被爆者」明かす記述 奈良県広陵町のスウェーデン研究者 戦後80年、生い立ち振り返る
お気に入りのレストランから出てきた二文字理明さん=2025年2月15日、大阪府柏原市、浅野詠子撮影
スウェーデン絵本の翻訳や同国の教育、福祉の法律に関する書籍の出版活動などで活躍する奈良県広陵町在住の研究者が、自身の名刺に「原爆胎内被爆者全国連絡会会員」と書き入れ、胎内被爆者であることを明かすようになって7年になる。きっかけは何だったのか。戦後80年を機会に思いを聞いた。
大阪教育大学名誉教授の二文字理明さん(79)。「異例の売れ行きスウェーデン絵本」の見出しで、翻訳者二文字さんの名訳を紹介する記事が2001年3月23日付の毎日新聞に掲載された。翻訳したシリーズ15巻の絵本「あなたへ」(レイフ・クリスチャンソン著、岩崎書店)は現在も版を重ね、日本の小学校の道徳の教科書に取り上げられている。
スウェーデンでの滞在研究歴も長く、はた目には豊かな学究生活のように映る。しかし生い立ちについては長く、人に話してこなかった。
広島に原爆が投下された1945年8月6日午前8時15分、二文字さんは被爆した母のおなかの中にいた。3カ月の胎児だった。翌年2月6日に誕生したが、「(原爆が投下された日の)6は嫌な数字だから」と出生届は7日付に。母は3年後に亡くなった。身勝手な振る舞いの父に振り回され、家は貧乏のどん底。育ててくれたのは兄と姉だった。
「母の顔を知らない」という。原爆投下直後、広島などを襲った枕崎台風による水害で、家財と共に家族の写真も流出してしまった。小学校の入学式は「近所のおばさんが一緒に行ってくれた」。学費もままならず、小学5年から牛乳配達、中学で新聞配達。高校時代は広島市育英会の奨学金を利用した。
広島大学に合格した。大学院に進んだものの、修士課程で奨学金を得られなかった。困っていたところ、家庭教師先の外科医が学費を出してくれ、学業を続けられた。当時、自治体消防は救急車の数が不足し、車両を寄贈しようと医師がためていた金だったという。
こうして他人の親切を受けていた。それでも博士課程を経て大阪教育大学に職を得たときは「これで広島から脱出できる」としみじみ思ったそうだ。幼少時に心弾むような楽しい思い出が何一つなかった二文字さんにとっては仕方のないことだった。
大学では障害者福祉や発達人間学などの研究に取り組み、学究生活は充実した。スウェーデンの書物の中には、おおらかな人間性、揺るがない理性に導かれた思考、それが展開された豊かな世界があると指摘した学者がいるが「まさにその通り」という。
今度は日本を脱出したくなり、定年を迎えた65歳のとき、再びスウェーデンに渡り、4年間、語学の研さんに励んで文学作品の翻訳を夢見るようになった。
2015年に帰国したが、なぜか「誰とも会いたくない気分」に支配されるようになってしまった。「自分の老いとも関係があるのだろうか」とも考えた。実際、しばらくの間、人と会うのが本当に嫌になって孤立したという。
そんなある日、インターネットの検索で、自分の原点でもある「胎内被爆」の4字を入力してみた。「原爆胎内被爆者全国連絡会」という団体があることが分かった。
会周辺の縁者の中には、母親の妊娠初期に強力な放射能を浴びた後遺症により、頭囲が小さい原爆小頭症を患う人や身長がなかなか伸びなかった人もいた。早速、広島の事務所を訪問し2017年、入会した。
二文字さんが被爆者手帳を得たのは大学生のころで、終戦から20年もたっていた。誰に教えてもらう訳ではなく、わずかな情報から胎内被爆者にも何らかの公的な支援があることを知り、被爆した証拠を集めて申請した。
奈良県庁から毎年、健康診断の案内が来て、年に2回、大和高田市立病院で受診している。こうした制度があるのも「無名の胎内被爆者の人々が粘り強く運動してきたからだろう」という。
胎内被爆者連絡会の人たちの導きにより2018年には無縁仏の供養塔の前に立つこともできた。「遺骨が見つからない祖父母はきっとここに眠っている」と二文字さんは確信する。原爆投下の日、岡山市内に一時滞在していた母は、一目散に爆心地付近を目指し、両親を捜索、この際に被爆した。
あれほど避けようとした広島。しかし供養塔の前に立つと、すがすがしい水に身を任せたような無理のない感覚に包まれたという。以来、二文字さんは、自分の名刺には、大学研究者の肩書きと並べて「原爆胎内被爆者全国連絡会会員」の文字を刻む。
2020年には会員による手記集「生まれた時から被爆者」へも寄稿した。そのとき胎内被爆者の生存者は6879人。二文字さんの長男はスウェーデンに本社がある日本法人の幹部、看護師の長女はスウェーデン人の夫と同国で暮らす。同国はNATO入りしたが「スウェーデンは240年間、戦争をしていない国。そこを掘り下げてみたい。自然災害には耐えるしかないが、人が引き起こす戦争は何としても避けなければならない」と話した。