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発行者/奈良県大和郡山市・浅野善一

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コラム)戦死は悲惨、無念:戦後80年からの平和論/川上文雄のじんぐう便り…14

市松人形は奈良市の工房朋(とも)制作。前列は郷土玩具。左から、芝原人形(千葉県長南町)「こま犬」、伏見人形(京都市)「招き猫」、琉球張子(沖縄県)「ねずみ」

市松人形は奈良市の工房朋(とも)制作。前列は郷土玩具。左から、芝原人形(千葉県長南町)「こま犬」、伏見人形(京都市)「招き猫」、琉球張子(沖縄県)「ねずみ」

 来年は戦後80年。平和が当たり前になった日本。「平和は人権」と考えれば、平和はかけがえのないものだけれど、当たり前のものです。でも平和を願う気持ちが弱くなってはいけない。当たり前の平和が続くことを、もっと強く願うのがよい。

 どうしたら強く願えるか。昭和の戦死者の思いに導かれて「戦死はひたすら悲惨で無念」と知る。そして、自分が戦死する姿を思い浮かべて、今から戦死を強く恐れることです。「知らない、恐れない」の状態が続いたら「平和ぼけ」のおそれありです。

 「戦死はひたすら悲惨で無念である」とは戦争は悲惨・無念以上でも以下でもない、それ以外の意味を付け足さないということです。だから、「平和のために命を捧(ささ)げた人たち(尊い犠牲者)」のような賛辞は差し控えて、「悲惨で無念」という考え方に徹する。それを、戦死者と真摯(しんし)に向き合うための拠(よ)りどころにする。戦争の抑止のために―軍部と「政府の行為によってもたらされた戦争の惨禍」(日本国憲法「前文」)を繰り返さないために―忘れたくない考え方です。

 おびただしい戦死者をもたらした昭和の初めの20年間。戦死者は戦場(戦闘)で命を奪われた兵士だけではありません。原爆投下など米軍の都市爆撃で命を奪われた民間人も戦死者。日本の侵略戦争による外国人戦死者(市民、兵士)も含まれます。

 戦死はみじめで、むごたらしい。悲しくて心がしめつけられる。悲惨である。石垣りん(1920~2004)が戦後20年の節目に書いた詩のなかで、東京大空襲で命を奪われた会社の同僚の姿を描いています。「弔詞」(ちょうし)という詩。職場新聞に掲載された105名の「戦没者名簿」に寄せて書いたものです。

 「活字にすれば四つか五つ。その向こうにあるひとつのいのち。悲惨にとぢられたひとりの人生。たとえば海老原寿美子さん。長身で陽気な若い女性。1945年3月10日の大空襲に、母親と抱き合って、ドブの中で死んでいた、私の仲間」

 水死とは思われません。激しく熱かったのでしょう。

 戦死した兵士もこの女性と基本的に同じです。「尊い犠牲」と他の人たちが称賛しようと、絶命の様子に焦点をあわせれば悲惨です。敵の戦艦の大砲で撃ち落とされた、あるいは体当たりで戦艦を撃沈した特攻隊員も。海の藻屑(もくず)になった。

 そして、戦死は無念である。自分の人生が突然断ち切られるのですから。それまで当たり前にできていたこと―でも、かけがえのないもの―を続ける可能性、あるいは努力して将来何かになる可能性―美術学校の学生なら、一人前の画家になる可能性―が完全に閉ざされてしまう。「戦争ミュージアム」(梯久美子、岩波新書)に画学生のことが書かれています(「無言館」と戦没画学生慰霊美術館があるそうです)。

 同書には、特攻兵器・人間魚雷「回天」の訓練中、衝突事故で魚雷内に閉じ込められたまま、血まみれで命を落とした特攻隊員の記述もあります。「完成度が低く訓練中の事故が多かった」「人間は兵器の一部に過ぎなかった」。軍・政府に命をぞんざいに扱われて、無念の思いはいっそう深まることでしょう。「政府(と軍部)の行為がもたらした戦争の惨禍」(日本国憲法「前文」参照)。

 本を通じて、無念の思いのさまざまな具体例は知ることができます。家族への切々たる心情・思いやりを知ることもできます。

 悲惨で無念な死は絶対に避けたい。人間だれもがいだく根元的な願いです。大津波など激甚災害は、そんな死をもたらします。戦死もそうです。「そんなふうに死にたくない、戦死は恐ろしい」という強い願いを拠りどころにして、過去の戦死者の思いに向き合う。戦後生まれの私たちは未来の戦死者になる可能性がある(若い人ほど大きい)。その可能性を考えれば過去に戦死した人たちの悲惨・無念が身近になる。それを起点にして、戦死者と向き合います。

 戦死した兵士に向かって「平和国家の礎になった」「国策に殉じ、自分たちの祖国を守ろうとした」と称賛することもない。それよりもまず「悲惨・無念」の思いを受け止めてほしいと願う兵士がたくさんいるはずです。(両方を望む戦死者もいるでしょう)。そんな称賛はしないで戦死者とつながりたい。

 戦死した兵士が今の日本を見ているという想定で、お願いと問いかけの手紙を書いてみました。宛名は「Aさん」。以下、未完成の下書きです。

 Aさんの当時の思いは「平和を強く願いつつも、やむをえないこととして今は戦う」だったと推察します。将来の日本が平和であるようにと祈ってくださったことでしょう。時代は移り変わって、Aさんの「将来の日本」は「現在の日本」になりました。

 平和が80年近く続いた今の日本。「平和がずっと続くように」と、強く願うことがとても大切な時期になってきたと思っています。戦後80年に向かう今の日本に生き返ったとして、戦後の歴史を振り返っていただけないでしょうか。平和を強く願えるようになるために、Aさんはじめ戦死した方たちが経験したことにしっかり向き合いたいです。

 戦後生まれの私たちは、戦後に書かれた本などを通じて「戦死は悲惨で無念」のおびただしい事例を知りました。軍・政府に尊い命をぞんざいに扱われた事例も知りました。Aさんにも知っていただきたいです。

 Aさんも同じ思いですか。「戦死は悲惨で無念」だから「戦死を強く恐れる」という考えを受け入れてくださるでしょうか。それとも、「平和のための戦争に命を捧げる」という考え方にいまも魅(ひ)かれるのでしょうか。それとも、この2つの考えを両方とも受け入れたいと思われているのでしょうか。

 Aさんの無念の思いの丈が言葉として、本などを通じて私たちが知るということはないのかもしれませんね。戦死された方のほとんどがそうです。せめて、「Aさんと一緒にその本を読んでいる」と思うようにします。「安らかに眠ってください」など鎮魂の言葉で、Aさんを過去の人にしたくありません。だから「平和国家の礎になった」などの過去形の賛辞も控えます。いつも傍らにいて何かの折に導いてください。ありがとうございます。(「下書き」おわり)

 「国策に殉じ、自分たちの祖国を守ろうとした」という称賛の言葉に違和感があります。将来の戦争において「国策に殉じ、命を捨てて祖国を守ろうとする兵士」の模範として国民に受け入れてもらうということなのか。「平和を強く願うからこそ、平和のための戦争はやむを得ないのだ」という考えもあるのか。それでは戦争の抑止として弱い。「戦死は悲惨で無念、戦争(戦死)を強く恐れる」をともなわない「平和を強く願う」は危ういと思います。

 最後に外交・防衛政策について。「戦死は悲惨で無念」「戦死を強く恐れる」に対応する外交政策は「緊張緩和」です。防衛力整備と称して軍備増強だけ先行させ「力の均衡による相互抑止」をめざすことは、緊張緩和の外交に反します。防衛政策は専守防衛が大原則。戦争の可能性を拡大する心配のある集団的自衛権を容認していいものでしょうか。

 追悼のことを書いたコラムがあります。 コラム)アジアへの謝罪、戦没者はしたかった/川上文雄のじんぐう便り…7

(随時更新)

川上文雄

 かわかみ・ふみお=奈良教育大学元教員、奈良市の神功(じんぐう)地区に1995年から在住

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