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発行者/奈良県大和郡山市・浅野善一

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コラム)「自助の呪縛」を断つ/政治と憲法の風景・川上文雄…26

筆者のアートコレクションから大江正彦(おおえ・まさひこ、1965年生まれ)「ねこ」。作者は大阪市在住、アトリエひこ(大阪市平野区)所属

筆者のアートコレクションから大江正彦(おおえ・まさひこ、1965年生まれ)「ねこ」。作者は大阪市在住、アトリエひこ(大阪市平野区)所属

 コロナ禍のなか、困窮者支援の現場の状況を伝える新聞記事がありました(毎日新聞2021年9月24日朝刊)。生活保護の受給を勧めても「受給するくらいなら死んでしまいたい」などと拒絶する人が多くいる、世間には生活保護を受給する人たちへの拒否の感情が根強くあって、公助には頼りたくないという思いが強い、という記事でした。

 「ぎりぎりの限界まで自分でやれ、自己責任でやれ」という圧力を感じているのでしょう。そこから逃れられない。「自助の呪縛」です。しかし、そもそも自助とは「自らを助ける」ことです。だから自助の呪縛から解放されることが自助であり、公助を求めることこそ自助である。そう考えることもできます。

 自助とは何か。どこまで自分個人の責任でやるのか。これは生活保護が必要な人だけでなく、だれにとっても重大な問題です。筆者の考える自助とは「自分を大切にすること」。これにより世の中に根強く存在する自己責任を強調する考え方に修正を加えたいと思います。

過剰な要求に委縮

 まず、呪縛について実際に起こった出来事を手がかりに考えます。

 2019年10月12日、超大型台風が関東地方を襲いました。その際に、東京都台東区が設置した自主避難所に来た野宿者たちが、「区内に住民票がない」ことを理由に受け入れを断られました。外にいれば命の危険があるほどの台風だったと言われています。SNS上では、受け入れを拒否した職員の対応を非難する書き込みが少なからずありました。

 同時に、その人たちに対する批判(リプライ)もSNS上に現れました。「批判する人は自分の家で保護できるのか。そうじゃないなら批判するな」「キレイゴトをいうな」といった趣旨の文章でした(大量の「いいね」がついていたとか)。

 台東区批判の言葉が過剰なまでに荒々しかった? 売り言葉に買い言葉? それがどうであれ、反発の核心は「自分でやるべきことをやってから、批判しろ」です。

 しかし、自分の家に泊められる人は、ほとんどいないでしょう。大豪邸で部屋が余っている人ならできるかもしれません。いろいろな事情があって、個人にできることには限界がある。だから公的な機関にそれを委ねる(託す)。政治・行政の存在理由です。その政治・行政が適切な行動をしなかった。それを批判しただけなのに。

 「自分の家に泊めろ」に、筆者は個人に対する過剰な要求、つまり「限界を超えてまで自分でやれ」という要求を感じとります。この種の過剰な要求に対抗できる考え方を持てなければ、相手の主張に押し込まれ、委縮して行政批判をしにくくなる恐れがある。台東区の事例にとどまらない問題があります。

 生活保護の事例でも同じようなことが起こります。(1)「自分でやるべきことをやってから、生活保護を申請(受給)しろ」という要求・意見が世の中に根強く存在する。(2)その要求・意見の重圧に萎縮してしまい、生活保護申請をためらう。自分の限界まで自分一人でやろうとする。人によっては、限界を超えてまで一人でやってしまう。いずれにしても、自分個人に対する過剰な要求をみずからに課す。自助の呪縛です。

 「自助とか自己責任とか、それ自体が間違った考え」というように、全面否定する必要はないでしょう。しかし、世の中での使われ方に問題があることは明らかです。過剰な要求に委縮しない、それに対抗できる思想は何か。「自助」の再検討が必要です。

自助=自分を大切にする

 困ったときは、ごく普通に他人に助けを求める。これが出発点。「他人」は広くとらえて、個人、支援NPOなどの団体、国レベル・地方自治体レベルの政府を含めます。

 自分の限界を超えてまで自分ひとりでやろうとしない。そう自分で考えて自分を助ける、つまり「自助」する。自分の限界を超えてまで自分だけでやるのでは、自分で自分を苦しめるだけ。自分を大切にするなら、そんなことはしない。自助とは自分を大切にすることです。

 自分を大切にするのであれば、助けてもらう側の人は―「ありがとう」の気持ちはともかく―助けてくれる他人に引け目・負い目を感じないほうがいいでしょう。それだと、自由な関係でいられなくなります。自由な関係とは、優劣・上下を意識しないですむ関係のこと。助ける側の他人も恩着せがましくしない。それが個人であれば「だれにも弱い部分と強い部分、不得意・得意があるから、おたがいさま」くらいに考える(→追記)。

 政府(国、地方自治体)の場合は、さらに補足説明が必要です。

公助の根っこは自助

 生活保護を申請するなど政府に公助を求める。ところが、公助で助けられる自分は主権者でもある。だだ、主権者といえども個人でできることには限界があるので、政治・行政に仕事を託す(憲法前文「国政は国民の厳粛な信託による」)。

 つまり、公助の核心は「主権者である自分が生活保護を必要とする自分を助ける」という意味で「自助」なのです。ひとりの人間の中の2つの自分のあいだに優劣・上下関係はありません。2つの自分をつなげている政府に負い目を感じる必要はありません。 

 政府も「まず自助で、(つぎに家族・民間団体による共助で)それでだめなら公助」と順番を意識させる言い方はしないほうがいい。これはある種の上下関係を感じさせる言い方です。そして、個人に過剰な要求をする「自助の呪縛」を放置したままにする言い方でもあります。生活に困窮する人たちへの共感が不足していないでしょうか。

 この「共感」は何を意味するのか。共感できる理由は何か。生活保護などの施策に関わる公務員(地方自治体の首長、現場の職員、議会議員)のみなさんにぜひ考えていただきたい重要な問題です。出発点は「自助も公助も根っこはつながっている」「自分を大切にすることが基本」という考えだと思います。

【追記】

 もちろん、障害など何かの事情があって、つねに(ほとんどつねに)弱くて助けられる側の人もいるでしょう。それでも優劣・上下の意識が生じることのない自由な関係は可能です。困窮している人を自立できていない人と見下せば、自由な関係は築けません。自分自身も自由な人間でなくなります。

 なお、「自助と公助の関係」については第9回「水野さんのたこ焼きと福祉の基本」でも論じました。

(おおむね月1回更新予定)

川上文雄

かわかみ・ふみお=客員コラムニスト、元奈良教育大学教員

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