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発行者/奈良県大和郡山市・浅野善一

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ジャーナリスト浅野詠子

関西広域)大正期新興美術運動「三科」同人の浅野孟府と木下秀一郎、戦後も交流 物語るはがき見つかる

木下秀一郎と浅野孟府の戦後の交流を物語るはがき=宇野映さん所蔵

木下秀一郎と浅野孟府の戦後の交流を物語るはがき=宇野映さん所蔵

第2回未来派美術協会展覧会の会場。右から浅野孟府、木下秀一郎、ロシア未来派のブルリューク、普門暁、ワンダス写真館の筒井英雄(奈良県立美術館「特別陳列 普門暁展」目録から)

第2回未来派美術協会展覧会の会場。右から浅野孟府、木下秀一郎、ロシア未来派のブルリューク、普門暁、ワンダス写真館の筒井英雄(奈良県立美術館「特別陳列 普門暁展」目録から)

木下秀一郎の作品「決行せるアナルヒストの心理的像」(1924年、所在不明)=東京国立近代美術館ニュース誌「現代の目」1970年10月号への木下の寄稿文「三科の創立と解散」から

木下秀一郎の作品「決行せるアナルヒストの心理的像」(1924年、所在不明)=東京国立近代美術館ニュース誌「現代の目」1970年10月号への木下の寄稿文「三科の創立と解散」から

 大阪府大東市ゆかりの彫刻家浅野孟府(1900~84年)が、大正期新興美術運動の頂点といわれた三科の同人として、一緒に活動していた洋画家の医師、木下秀一郎と戦後も交流を続けていたことを物語るはがきが、東京都府中市内に住む孟府の長女、宇野映さん(85)方で見つかった。孟府の芸術家仲間との一交流がうかがえる新しい事実だ。

 三科の解散後、木下は医業に専念、孟府は前衛から離れて具象の作風に変わり、2人の軌道は大きく異なっていた。

 木下と孟府は大正時代、未来派美術協会展や三科の同人として前衛美術作品を出展。その後、孟府は社会主義に傾倒しプロレタリア美術運動に没頭して労働者像などを制作、木下は医師として業績を伸ばし、戦後の2人の関係は分からなかった。

 はがきは1967(昭和42)年、大阪府大東市野崎にアトリエを構える孟府が、東京世田谷区内の銀行員の元に嫁いだ映さんにあてたもので、再会したときの映さんの手荒れがあまりにひどかったことを心配し、古い友人の木下秀一郎博士に診察してもらうようにと書いている。

 はがきによると木下は皮膚科の大家と言われるようになっていた。東京都中央区日本橋室町の三越日本橋店の近くで開業していたらしく、孟府は略図を書いて知らせている。映さんによると、手荒れはほどなく快癒し、診察は受けなかった。

 今からちょうど100年前の1921(大正10)年、木下と孟府が一緒に写っている第2回未来派美術協会展覧会(会場、大阪市内)の記録が奈良県立美術館に残る。未来派を首唱した奈良市出身の洋画家、普門暁の没後に同美術館が催した「特別陳列 普門暁展」(1978)の目録に採用された1枚で、孟府が提供した。

 映さんは「父の美術家仲間との交流を物語るはがきであることを知り、とても感慨深いです」と話している。

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