関西広域)美術評論家の草分け、田邊信太郎の謎の生涯明らかに 平井・関大教授が論文

信濃橋洋画研究所開所式(1924年4月3日)。前列左より鍋井克之、小出楢重。中列左より国枝金三、黒田重太郎(芦屋市立美術博物館提供、写真説明は同館による。平井さんの調査によると、最後列左の和装の人物が田邊信太郎)
職業としての美術評論家が珍しかった大正時代から戦前の昭和にかけ、西洋美術の評論で活躍しながら、多くが謎に包まれていた大阪出身の田邊信太郎(1894~1960年)の生涯を、関西大学教授の平井章一さん(近現代美術史)が調査、「「大大阪」の美術評論家、田邊信太郎について」と題した論文にまとめ、「関西大学文学論集」2025年9月号に発表した。
田邊が健筆を奮ったのは、国内における西洋前衛美術の受容史が展開された時代。戦争が激化する1940年代まで、田邊は西洋美術の新しい表現に関心を持ち続け、未来を背負う若い美術家や学生たちにまなざしを向けた。平井さんは田邊の活動を「東京と双璧をなす大都市として活気に満ちていた『大大阪』の時代精神を象徴するもの」として、その足跡を追った。
平井さんによると、戦前は、同業者である美術家自身が美術展評や美術家論を執筆するケースが多かった。その意味で、美術家ではない立場から美術評論を行っていたのは田邊のほか、大阪朝日新聞社員の春山武松だけという。
ただ、春山の個人的な関心はもっぱら、日本の古代から中世にかけての美術に向けられていた。田邊こそ「現在の美術評論家と近い形で同時代の美術を論じた唯一の人物」とする。
田邊の足取りを平井さんが詳細に追跡できたのは、国立国会図書館デジタルコレクションに代表される書籍・雑誌のデジタル化の目覚ましい進展と、オンライン上での横断検索システムの発展によって、多くの広範な情報が得られるようになったことが大きいという。これら情報を分析し、紡ぎ合せることにより、田邊の知られざる生涯を明らかにした。
「ネット社会だからこそできた新しい調査の方法であり、とかく問題ばかりが指摘されるネット情報ではあるが、利点も多いことを再認識した調査でもあった」と平井さんは振り返る。
「白樺」ゆかりの文学青年だった
平井さんの論文によると、田邊は大阪府立旧天王寺中学(現・天王寺高校)から旧東京高等商業学校(現・一橋大学)に進学。在学中に友人らと歌集を刊行したほか、詩作が北原白秋編集の文芸雑誌「朱欒」(ざんぼあ)に掲載されるなど、早くから文芸で頭角を現した。
1916年には雑誌「白樺」(志賀直哉、武者小路実篤らが創刊)の衛星雑誌とされる同人誌「貧者の樹」を仲間たちと創刊し、詩を寄稿。2年後の1918年には「白樺」(第9巻第1号)にドストエフスキーの「恋人の夢」の訳文を寄稿していた。
卒業後は大阪に帰郷し、銀行に就職するが2年で退社し、関西大学専門部講師(商業史)に就任。1924年には信濃橋洋画研究所(大阪市西区)の美術史講師となり、以降、美術評論家としての旺盛な活動が始まる。ただ、美術史の講師になった経緯が分かる資料はまだ見つかっていないという。
平井さんは「同じ大学(関西大学)で戦前に美術史を教えていた遠い私の先輩であることは知っており、以前から強い関心を持っていた」が、国立国会図書館のデジタル情報などに接するまでは「調べようにも手がかりがなかった」と話す。
グリコのおまけ考案者、宮本順三も講義受ける

宮本順三が日記に残していた田邊信太郎の講義「近代絵画傾向」の記述=2025年10月28日、大阪府東大阪市下小阪5丁目の宮本順三記念館、浅野詠子撮影
多くの画家を輩出し、展覧会活動も行った信濃橋洋画研究所。その開所式(1924年)の写真が兵庫県芦屋市立美術博物館に残る。研究所を設立、実技の指導者になる小出楢重ら4人の画家ら(いずれも二科会会員)と共に田邊が写っている。「研究所の理論的側面を持つ準指導者として写真に収まった」と平井さんは見る。
同研究所は1931年に移転し中之島洋画研究所(大阪市北区)と改称。1933年の同研究所の夏季講習会には、後にグリコのおまけを考案し活躍する宮本順三が通っていた。同年8月4日の宮本の日記には、田邊の講義を宮本が受けていたことをうかがわせる「近代絵画傾向 田辺信太郎」との記述がある。この情報は、芦屋市立美術博物館の学芸員、川原百合恵さんから得たと平井さん。
日記は、宮本順三記念館(大阪府東大阪市下小阪5丁目)に現存する。孫で記念館事務局の磯田宇乃さんは「奈良の声」記者の取材に対し、「宮本は7歳のときから日記をつけていた。太平戦争末期の大阪大空襲で失われた街並みを克明に描写した絵日記も残り、現在も研究者たちが訪ねてくる」と話す。
西洋から独自に資料を入手した足跡、戦争で途絶する美術評論活動
平井さんは田邊の成した美術論考の数々を一挙に時系列で論文に列挙した。1920年代末から30年代末にかけ、美術雑誌の「みづゑ」「アトリエ」「中央美術」に西洋の美術動向に関する論考を多数寄稿している。ゴッホやモディリアーニをはじめ、形而上学絵画のギリシア生まれの画家ジョルジョ・デ・キリコ、表現主義などの影響を受けたチェコ出身の画家・彫刻家オタカル・クビンら内外美術家の作家論を展開した。
これら著作の幾つかはがフランス語やイタリア語の文献を原本または底本としており、「田邊は複数の西洋言語にたけていた」と平井さんは想像する。当時最新とされた言説が頻繁に採用されており「西洋から独自に資料を入手し、近現代美術を深く研究していたことがうかがえる」とする。
しかし、1940年からは時局を反映した著作に変化。田邊は「大東亜創造」(1942年)、「学徒出陣」(1944年)を「関西大学学報」に寄稿し、美術評論は太平洋戦争末期でぴたりと止まった。
敗戦後、田邊は15年間生きたが、一切の文化活動から身を引いている。戦後復興期、東洋精機の常任監査役として会社役員一筋の人生を送ったという。
平井さんは「東京から一目置かれる美術研究者でありながら、文学、教育、会社経営とさまざまな領域で才能を発揮した田邉は、大阪のおおらかな文化的気風を象徴する人物だったことが分かった。大阪の食用油会社の社長で前衛画家として活動し、戦後は若い美術家を引き連れて国際的な抽象美術団体、『具体美術協会』を結成した吉原治良にも通じるものを感じる。狭い枠にとらわれない自由さ、バイタリティーこそが大阪の文化の特徴で、今それがどんどん失われ、『ミニ東京化』しているのは残念。国立国会図書館を中心に過去の出版物がどんどんデジタル化されており、今後はこれらを活用することで、田邉のような歴史の闇に埋もれた人物にも光が当たるだろう」話す。
筆者情報
- ジャーナリスト浅野詠子
- 電話 090-7110-8289
- メール info@asano-eiko.com
- ツイッター @asano_eiko








