ニュース「奈良の声」のロゴ

地域の埋もれた問題に光を当てる取材と報道


「奈良の声」が日隅基金・情報流通促進賞で特別賞

ジャーナリスト浅野詠子

高畑のヴォーリズ建築、主として注目の画家・栗盛吉蔵 昭和初め、奈良の絵画展に足跡

栗盛吉蔵(右から4人目)が写る「新光会」第2回展の記念写真=奈良県立美術館「特別展 近代奈良の洋画」図録から

栗盛吉蔵(右から4人目)と浜田葆光(同2人目)が写る「新光会」第2回展の記念写真=奈良県立美術館「特別展 近代奈良の洋画」図録から

 昭和の初めに建てられ、奈良県内に唯一現存するヴォーリズ建築として保存を求める声が上がっている奈良市高畑町の屋敷の当初の主として注目される日本画家、栗盛吉蔵(1897~1974年、秋田県大館市出身)。当時、市内で開かれた絵画展に出品するなど足跡を残していたことが、「奈良の声」の取材で分かった。

 栗盛が同屋敷に住んだとされる時代は、近隣の志賀直哉邸で「高畑サロン」と呼ばれる文化人の交流が繰り広げられており、栗盛はサロン常連の洋画家、浜田葆光(二科会員)門下生約10人でつくる美術グループ「新光会」に参加していた。浜田は「鹿の画家」として知られ、近代奈良の美術を展望する上で欠かせない人物。

 栗盛が出品したのは「新光会」の絵画展。浜田に師事した洋画家、間瀬謹平(1905年生まれ、没年不詳)の作品が、1974年に奈良県立美術館で開かれた「近代奈良の洋画」で展示された際、同展の図録に間瀬の回想「新光会から美術協会へ」が掲載され、その中に関連の記述があった。

 回想によると、浜田の門下生たちが1931年、浜田の号から「光」の1文字をもらい、「新光会」を結成。同年、第1回展を当時、奈良市の興福寺北側にあった県立図書館(その後、大和郡山市内の郡山城跡に移築)の2階を借りて開いていた。回想の中に出品者として栗盛の雅号である「栗盛大地」の名があった。栗盛は第2回展にも出品していた。「近代奈良の洋画」の図録には「新光会」第2回展の際、図書館前で撮影されたとみられる記念写真が掲載されていて、栗盛も写っている。

 第1回展は志賀直哉も見に来た。第2回展の記念写真に栗盛と共に写る奈良師範学校(現・奈良教育大学)美術教師、洋画家の谷山藤四郎は1933年から37年までの間に、志賀邸に8回出入りしていたことが志賀の日記(岩波書店「志賀直哉全集」に収録)から分かる。

 栗盛は1934年、高畑町の土地を取得、44年、秋田に帰った。屋敷は新しい持ち主が住んでいたが、その後、空き家になっていた。大手住宅メーカーが今年3月、取得、屋敷を解体して敷地を販売することを検討していたが、保存運動が始まったことを受けて動きは止まっている。

 同屋敷の保存運動に参加している奈良市紀寺町の建築家、藤岡龍介さんは先月、県建築士会のメンバーらと屋敷内に入ることができた。藤岡さんは「想像以上に和洋折衷で、書院風円窓の座敷もある。奈良を意識したのか軒瓦を採用し、ヴォーリズ建築らしくない奈良のヴォーリズ」と、建物の魅力について話している。

栗盛吉蔵も出品した「新光会」展示会の会場となった旧奈良県立図書館=2025年6月1日、大和郡山市の郡山城跡、浅野詠子撮影

栗盛吉蔵も出品した「新光会」展示会の会場となった旧奈良県立図書館=2025年6月1日、大和郡山市の郡山城跡、浅野詠子撮影

筆者情報

奈良市高畑町、ヴォーリズ設計の古屋敷巡り保存運動

ヴォーリズ設計と伝えられる古い屋敷。当初、敷地と建物を取得した大和ハウス工業の連絡先が掲げてあったが、現在は取り外されている=2025年4月8日、奈良市高畑町、浅野詠子撮影

読者の声