視点)徴兵よけ神仏祈願、奈良県にも 戦時下の庶民、抵抗の形

徴兵よけ祈願の人たちが参拝したという稲蔵神社の境内=2026年8月13日、生駒市小明町、浅野詠子撮影
大正時代の奈良県に、徴兵検査に不合格になるよう神仏に祈願する人たちがいた。当時の新聞に取り上げられている。御利益がある県内の社寺として、生駒市小明町の稲蔵神社など4カ所が登場するが、記事は当時の世相を反映して、非国民の行為として非難する論調。一方、近年は、戦争に行きたくない庶民の抵抗の形として、意義を見いだす論考もある。
記事は1914(大正3)年6月11日付の奈良新聞(戦後創刊の現在の奈良新聞とは別)に掲載された。第1次世界大戦が勃発する直前で、県内では徴兵検査が粛々と実施されていた。
記事によると、4年前、八木町(現・橿原市)の石工が、何とかして徴兵検査に不合格になりたいと、御所の葛城一言主神社に詣でたところ、にわかに眼病になり、願いがかなって検査は通らなかったという。
しかも、目の病はたちまちのうちに全快。喜んだ石工は夜なべをして大きな石灯籠を作り、奉納した。この話が、五條の宇智、磯城郡の田原本などのほか、遠くは和歌山県の橋本にも伝わり、徴兵よけに御利益がある神社として知られるようになったという。
あと2カ所は、東大寺二月堂と天理市櫟本町近在の平野稲荷。奈良新聞は記事に「非国民の信仰」という見出しを付け、徴兵よけの祈願を悪しき風習と非難した。
橿原の谷彌兵衞さん、徴兵忌避を抵抗として評価
橿原市在住の林業経済史研究者、谷彌兵衞さん方を記者が訪ねたのは10年ほど前。吉野川分水に関する取材だったが、帰りがけに谷さんが2013年に執筆した冊子「奈良にも戦争に反対した人がいた」(聞き取り調査は桝本實雄元村議)をもらった。
太平洋戦争末期の1945年4月、旧小川村(現・東吉野村)の高見川沿い県道脇のコンクリート擁壁に「負け戦争はするな、バカヤラウ」と大書し、官憲に逮捕され、終戦までの半年間、旧奈良監獄に収監された木材業・松本元市郎の評伝だった。
元市郎の行動だけでなく、巡査を批判した駅トイレの落書きや、軍人を茶化した替え歌など、言論統制下で庶民が発信した風刺表現などを谷さんは紹介。それらは人間としての抵抗だったと論じている。
徴兵拒否の思いを抱く人々の心情についても、抵抗の一環として位置付けた。奈良新聞の記事は、奈良県近代史研究会という団体の会報で知ったとある。
谷さんは評伝の中で「召集令状に逆らえない以上は、神仏にすがって徴兵を逃れようとする心理が働くのは人情だ。これによって日本の方向が改まったわけではないが、記憶に止め、後世に伝えるべきもの」と述べている。
生駒の神司が語る弾よけ神社
生駒市の稲蔵神社を訪ねた。集落の鎮守として江戸時代に創建されたという。神社には、日露戦争(1904~1905年)に出征し、帰還した兵士たちが奉納した杯が20個ほど残っている。
また、境内には、同戦争から帰還した地元の兵士らが奉納した石灯籠も現存する。奈良新聞が報じた八木町の石工の灯籠奉納と通じるところがある。
神司(かんづかさ)の森田一彦さんによると、日露戦争に出征する前、同神社に詣で武運長久を祈った兵士のうち、帰還できた人たちが「御利益があった」と盛んに周囲に話すうちに、大阪方面まで話が伝わり、弾よけ神社と呼ばれたことも。
「祭神の一つである生魂明神(いくたまみょうじん)は命の神様。日露戦争は、日清戦争とは比較にならないほど、おびただしい戦死者が出た。稲蔵神社に対する武運長久、弾よけ神社としての信仰が盛んになるにつれ、いつのまにか徴兵よけに御利益がある神社と言われるようになり、徴兵検査に合格しませんようにと、兵役逃れを願う人たちが続々と参詣したのだと思う」
こうした庶民の心と、落書き「負け戦争するな、バカヤラウ」の元市郎の行動とを結び付けて谷さんは評伝を執筆した。組織としての抵抗運動とは異なり、誰かに命じられてやった行為ではないとみる。
太平洋戦争中、軍需工場でわざとオシャカ(不良品)を出したり、生産目標の達成を意図的に手抜きしたりした人たちも、庶民が抵抗した事例として、評伝の中で取り上げている。1944年の1年間に、造言飛語で検挙された県民は200数十人いて、この中に分別盛りの者や有識階級ともいうべき人が相当数いたことを当時の新聞が報じているという。
歴史学者の家永三郎は、たとえ消極的な抵抗であったり、沈黙を貫くような態度であったりしても、苛烈な戦時下における歴史的遺産であったと論じており、谷さんはこの言葉を重く受け止めている。その意味をかみ締めたい。
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- ジャーナリスト浅野詠子
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