講演録)奈良県域水道一体化を考える~水と地方自治と
講演会の案内ちらし
(本稿は、浅野詠子が「奈良の声」で伝えてきた県域水道一体化を巡る知られざる事実を踏まえ、2020年11月14日に奈良県橿原市内で開かれた県地方自治研究センター第39回総会・記念学習会で講演した内容に加筆、修正を加えたものです)
県民不在 パブリックコメントなし、学識経験者らの中立な審議会論議もなし
皆さん、こんにちは。本日は、奈良県が進める水道の一体化計画について私なりに拾った課題をお話します。
あり余る大滝ダムの水を主要な水源として、奈良市を除く奈良盆地の市町村の地下水浄水場をすべて廃止するという県のプランです。県民に対しては、メリットをうたった簡易なお知らせ(2018年3月)が来ています。
一人一人の水道料金によって経営が成り立つ分野であるが、下から練り上げていく計画ではありません。住民の声を聞いていません。県民は置き去りにされていないでしょうか。
巨大ダム偏重の水源に変わり、これまでの多様な水源がなくなってしまいます。地下水やため池など地域資源を生かした水源をなくしてしまう。防災上も、課題はないのでしょうか。何より、水道自治の縮小が案じられます。
県は県域水道一体化に伴う覚書内容について、なぜパブリックコメントをしないのか。もう1カ月ほど前から質問していますが、返事がありません。実施すれば、人口が多く、安定した水道経営を行っている北和の市町村の住民から相当、厳しい意見が出てくると思いますね。
予想される声として…。
◆ 改正・水道法にのっとった経営権の譲渡、すなわちコンセッション方式は採用するのかどうか?
◆ いずれ民営化になる布石では?
◆ おいしく低廉な地下水を廃止するのは残念。
◆ 料金はどうなるの?
等々…ほかにもいろいろな声が出てくるでしょう。
県民の中には、まあ言いたいことはあるけれど、自治体のパブリックコメントなんか、形式的な参加に過ぎないのでは…という不信感はありますよね。しょせん聞き置くだけのもの…人々の不満をそらすだけのものでは…といった疑問はお持ちでしょう。
しかし、やらないよりはやった方がいい。特に今回は私たちの生活と直結する上水道の分野です。厳しい意見がたくさん出ると思う。あの平城宮跡のテーマパークのような箱モノ建設ですら県は先月、パブリックコメントをやっている。早急に実施してほしいです。
水道の広域化という大きな政策変更であるにもかかわらず、学識経験者らによる中立的な第三者委員会なども県は開いていません。ダムや地下水の研究者を招いて、それぞれの長短に耳を傾け、さらに水道や公営企業などの専門家らを交えて意見交換し、審議する機会が必要です。
学者の審議会なんて、行政の計画にお墨付きを与えるだけのセレモニーじゃないのか…という意見もあるでしょう。事実、そういうお追従の審議会は少なくなかった。
しかしですね、知事が以前、若草山にモノレールをつくりたいと構想したとき、ある審議会において、厳しい意見が続出し、計画は進まなかった。それを思うと、学者の良心が発揮される論議もある。審議会の建設的な提言や批判に触発されて、地方議会の議論にも良い影響を及ぼすことだってあると思います。
私たち県民は、将来の水源まで「白紙委任」しているわけではありません。
なぜ、県は広域化を急ぐのでしょうか。
問われる自治のかたち
背景の一つとして考えられるのが水道広域化に伴う国庫補助金の獲得です。広域化という国家の政策を誘導する厚生労働省の補助金であり、満額を得るには、奈良県の水道企業団は2025年に開業することが有利だと県当局はみています。
大和郡山市は水道の一体化をにらんで、水道会計の内部留保資金28億円を一般会計に移動しました。
郡山のなしたことについて荒井知事は先ごろ、定例知事会見において高圧的なもの言いで市を非難しています。市の行為は法令にのっとったもので、議決されているのに対し「資産を隠した」と知事は決めつけています。
知事と市町村長の関係というのは、古い時代の主従関係のようにして一体化の政策は進むのでしょうか。一票差でも勝ちは勝ち。言い過ぎかもしれませんが「選挙独裁」という言葉があります。
2000年に施行された地方分権一括法は、国と地方との対等・協力の関係を促したことにととまらず、市町村と都道府県についても対等・協力な関係を促しています。
機関委任事務が撤廃され、地方自治法も「関与の法定主義」を盛り込んだ改正がなされています。すなわち、法律や条例の根拠がなければ、知事は勝手に市町村に対し命令することはできません。
目に見える露骨な支配はないのかもしれませんが、同調圧力がかかってくるのでしょうか。
いまの水道一体化は県庁の完全主導であり、草の根から練り上げていく姿勢はないでしょう。分権一括法ができて20年たちますが、いまも「県庁は上級官庁である」と信じきっている市町村職員がいます。上でも下でもなくて、事務区分が異なるだけではないのですか。
人口は減る、水道の施設は古くなる、耐震の対策も必要だ…、これらの諸課題に対応するために県内の浄水場を統廃合することに異論を持つ人は、そう多くはないと思います。
中には、水道経営がかなり厳しい小規模自治体が、ますます高額な水道料金になっていくことを心配し、経営の良好な北和の自治体などが潤沢な内部留保という身銭を切って一体化して、みんなで助け合うことだ…と言う人もいます。にわかに信じることができません。
というのも、奈良市高畑町に県が誘致したホテルがこのほど開業しましたけれど、本来は、開発を抑制する市街化調整区域です。ホテルを誘致せんがために、わざわざ奈良公園に編入し、「便益施設」という特例をもって開業しました。しかも富裕層をターゲットにした高額な利用料金を設定している。
公園という万人が入場できるはずの空間が、所持金の大小により立ち入りが制限されるようになりました。県政はトリクルダウンという言葉がお好きなようで、こういう開発が、やがては功を奏して下々にも恩恵が行き渡るという着想でしょうか。
このような開発手法をみていきますと、同じ県政が進める水道一体化策は、助け合いという思想から始まったとは思えません。あり余る大滝ダムの水を売りまくろうということでしょうか。
市町村の水道経営が今後苦しくなっていくというのなら、水道の卸である県営水道だって安泰という保障はありません。水源が遠く導水のコストもかかり、もともと安い水道ではない。
県の計画では奈良盆地の地下水浄水場を全て廃止に追い込む。これにより、県営水道が抱えているダム水を押しつける発想があると思います。
蛇足ですが、先ほど申し上げた、市街化調整区域の問題、これは本来、都市計画法の縛りがあります。山川出版社の高校教科書「政治・経済」において、都市計画法は独占禁止法などと並び、社会政策的な観点から自由な経済活動を制限できる法令あると解説されています。
公共名目を掲げて、あのような脱法的なホテル開発をして、県庁は中学生、高校生たちに都市計画法をどのように説明するのでしょうか。
反論もあるでしょう。ここはぜひとも、水道一体化の政策に至るまでの意思形成過程の、あるいはトップダウンの、組織内の何らかの記録が開示されることを待ちたいと思います。
熊本県に荒瀬ダムというのがありました。戦後まもないころ、同県内で生み出された電力は、国策として優先的に北九州の工業地帯に送られていました。このため熊本の中小零細企業は時間を短縮しての操業を余儀なくされていました。そこで豊かな球磨川に着目し、電力を起こそうと県が築造したのが荒瀬ダムだったのです。自治体らしい開発だと思います。
やがて60年の星霜…河川の環境をより良くしようという課題も出てくるし、漁業をもっと振興させよう、そして電力のダムゆえに洪水調節が難しいということもあり、県は今度はダムの撤去に乗り出します。数年前の出来事で、本格的なダム撤去としては国内第1号となりました。
前の知事が潮谷さんという女性知事ですね。この人は自民、公明を地盤にしながらも、国家が計画した巨大ダム、川辺川ダムに慎重な姿勢を見せ、立ち止まり、県民との対話を重ねてきました。自分を知事に送り出した陣営や組織とは異なる視点が生じたとき、良心の自由から、ダムの矛盾と向き合った政治家だと思います。
吉野川分水、300年の悲願というけれど
県域水道一体化の主要な水源となる国土交通省の大滝ダム(川上村の北塩谷橋から写す)=2020年11月27日
戦後、国家の巨大ダム開発に対し、はっきりと異議を申し立てた首長が幾人かおりますね。長野、鳥取、滋賀などの知事が思い起こされますし、四国旧木頭村の藤田村長も、そうしたお一人でした。
奈良県は戦後、一貫して、国家のダムを肯定、礼賛する知事が選ばれてきました。その背景を探るには、元禄以来300年の悲願といわれた吉野川分水の歴史に立ち戻ってみないと、よく分からないと思うのです。
少雨季候の奈良盆地の農業が日照りと格闘した土木遺産たる、ため池の数は1万ともいわれます。隠し井戸といって、非常時の渇水に備え、平時には土をかぶせて栽培をしていたとも聞いております。これが大和川水系の農業でした。
同じ大和の山一つ越えた所に吉野川の水がとうとうと流れている。紀の川の上流ですね。源流は日本一雨が降るといわれる大台ケ原。そこから川上村、吉野町、下市町、大淀町、そして五條市を過ぎれば、河川は無慈悲にも和歌山県に流れていってしまう。
水源を涵養(かんよう)してきた土地より、なぜ下流の方が水利権が強いのでしょう。紀州御三家の土地、そう簡単には奈良県に水を分けてくれません。どうかして、紀の川(吉野川)の水を奈良盆地に引き込みたいものだと、最初に吉野川分水を構想したのは、御所の庄屋、高橋佐助と伝わっている。郷土学習でも採用されているかもしれませんね。
幕末には、乾十郎でしたか、五條にいた天誅組の一人が吉野川分水を具体的に構想したと聞きます。
幾人もの有志が分水計画に躍起となりましたが、なかなか実現には至りません。転機が訪れたのは、戦後まもないころの国家によるダム開発事業でした。
食料増産が叫ばれた時代です。紀の川の上流域の支流、津風呂川に津風呂ダム、本流の川上村に大迫ダムという、いずれも農業用水を目的としたダムが築造され、吉野川分水が実現します。水系の異なる奈良盆地にいよいよ水がやって来ました。
奈良、和歌山の両県の仲裁に国が入り、分水の調印がなされ、その場所であった京都祇園のレストランの名前をとって「プルニエ協定」と呼ばれています。なぜわざわざ京都でやるのかといえば、農林省(当時)の近畿本部が京都にあるからでしょう。しょせん、呼び出しのレベルですね。
こうして、吉野川分水はダム開発と引き替えにようやく実現します。津風呂ダム、大迫ダムに加え、下流の和歌山の減水に配慮するための目的で大塔村(現・五條市)には猿谷ダムが築造されました。
奈良県にはなぜ、ダム肯定派の知事ばかりが選ばれてきたか。「好きなだけ、存分に水を使いたい」という県民の意識が後押ししているのでしょうか。
吉野川分水のうち農業用水は、大淀町下渕の頭首工から取水され、水道用水は後に大滝ダムを主水源として下市町新住の取水口から御所市の県営浄水場に運ばれ、奈良盆地に送水されています。
300年の悲願。奈良県の行政は実にこの表現を好んで使いますね。しかしながら、ずっと欠落してきた視点があると思うのですよ。それは、ダムの築造によって迷惑を被った村々、万葉ゆかりの山峡において、巨大な構造物と向き合わざるを得なかった人々の半世紀については思いが至らないのです。
その証拠に、奈良県が編纂した「吉野川分水史」には、己の事業の功績を延々とつづるだけで、ダムで苦しんだ村民へのまなざしが少しも立ち上ってこない。村長、住川逸郎は激怒します。文章が残っています。
「一言でいいのです。水没した人びとには、とくに迷惑をかけたというねぎらいと感謝の言葉があれば、この記録はもう少し読む人の心を打つはずです」(「大迫ダム史」から)
住川は1907年、川上村武木(たきぎ)の生まれ。旧制五條中学から旧制高校、京大経済学部を卒業して東京市の職員に採用されました。後に大陸に渡り、旧満州重工業の社員になります。爆撃を受けて負傷し本土に戻り、そのまま敗戦を迎えます。
戦後、村長となり、国家が突き付けてきた巨大ダムに対し、林野解放という、スケールの大きな条件闘争を構想しています。
奈良盆地は昔から国中(くんなか)と呼ばれていました。大和国の中心という意味でしょうか。一度、県立民俗博物館の先生方に教えてもらおうと思います。
翻って奈良市の東部の山間地域は、昔から東山中(ひがしさんちゅう)と呼ばれています。市民の水がめ、布目ダムや須川ダムを控えた水源地のかいわいですね。
市街地の人は、東山中という歴史的な呼称を用いず、よく「東部山間(とうぶさんかん)」と呼びます。軽視されているようで、どうも抵抗があると現地に住む市の職員から聞いたことがあります。
ある日、街中に住む市議が、東山中に住む市議のことを「山の人」と呼んでいました。違和感を持ちました。さしずめ吉野の住民なら「山奥の人」となるのでしょうか。屈指の国産材である吉野材を産出する土地でありますが、県庁はこのごろ「奈良の木ブランド」などと総称し、課名まで変えた。銘木のブランドはあくまで吉野材を指すものであると思います。
地域資源を学び直す
奈良盆地の地下水浄水場、天理市上下水道局杣之内浄水場=2020年11月27日、同市杣之内町
そこで本題なのですが、いま私たち奈良盆地の地域資源である地下水浄水場が消えようとしている。身近な所に水源があるのに、遠い吉野から分水されてくる。立ち止まって考えたいです。
こんなときこそ、大滝、大迫、津風呂などのダム開発により失われた歴史資源をもっと知りたいです。同時に、私たちの身近な所で失われようとしている水資源も見つめ直したいと思います。
近鉄の生駒駅を降りて再開発の広場に行くと、通りすがりの誰もがペットボトルで水をくんで持ち帰ることのできるスポットがあります。
市民でも市民でなくても自由に水をくめる。温かい空間です。生駒市は、自前の地下水と県水のダムの水をブレンドしていると聞きます。特に地下水の中に「おいしい」と感じる成分があると市はPRしていますね。
お隣の大和郡山市には、お城のすぐ近くに地下水100%の水道を市民に供給する北郡山浄水場があります。良好な水道会計を堅持されてきたが、一体化に伴い、この浄水場はなくなってしまう。ダムの県水と地下水を混ぜて供給する昭和浄水場もいずれ廃止ですか…惜しいことです。
奈良市に出かけますと、大正期にさかのぼる水道事業創設の記憶、赤れんがの旧水道施設が現存します。さすがに古いまちです。近隣の京都・木津川(淀川水系)から水を分けてもらったことが水道の始まり。これも分水ですね。
戦後は水資源開発公団の布目ダム、比奈知ダムの水利権を独自に得て、人口急増の時代を迎えても市は安定した水道経営を維持してきました。ダムで迷惑を被った山添村、三重県名張市などの人々の協力があってのことです。奈良盆地の市町村の中でも奈良市は県営水道の依存率が特に低い。延々と紀の川から引水する県水なしでもやっていけるのだろうが、「多様な水源を確保することは防災につながる」として、水道供給量の1割ほどを県から買っています。これも水の自治のあり方だと思います。
奈良市の水道開始が大正11(1922)年なら、天理市は1年早い。大正10年に水道事業が始まったそうです。民間の事業者が丹波市の浅井戸を開発したことが起こりとか。浅井戸というのは、身近な里山水源などを市民参加で涵養することができるので、その歴史に立ち返ってみたいです。
天理も奈良市も、県営水道に先駆けること45~46年。長い道のりを歩んできました。地下水の天理市杣ノ内浄水場は施設を更新したばかりです。
北和4市をぐるっと駆け足で回るようにお話しました。ここをいったん離れて、南下して葛城市に参りますと、これは珍しい事例ですが、江戸期に築造された農業用のため池10カ所を市内3つの浄水場とつないでいます。これらを大滝ダムなどの県水とブレンドし、市民に安価な水道を供給しています。
農業専用の吉野川分水はここにも来ており、ゆとりがあるのでしょう。現地を訪ねますと、ある池は、浄水場との距離が2キロでした。ふと思い出すのが、JR帯解駅のそばで満々と水をたたえる広大寺池(奈良市内)です。水面から頭を出す樋門が鳥居のように見えて独特な景観をなしていますね。水利権は下流の稗田環濠(かんごう)集落(大和郡山市内)にあると聞きますが、池から集落への距離がだいたい2キロくらいでしょう。
広大寺池のような大きいため池は、県内各地にたたずんでいます。治水、利水などいろいろと活用できそうです。
市町村水道のごく一部を簡単に紹介しました。
県水一体化構想は、奈良市の緑ケ丘浄水場を除き、奈良盆地の市町村の浄水場を全部廃止にしてしまいます。これを主導する県は、それぞれの歴史や価値を知ってのことでしょうか。このまま計画が推移すれば、奈良盆地の災害時給水拠点は確実に減ります。
一体化の主水源、大滝ダムに治水の課題
県は一体化のメリットばかりを伝えています。ダムや地下水、河川、ため池など、それぞれの水源ごとの長短を比較して検討する資料を県民に示していません。
一体化の主要な水源、大滝ダムの主目的は治水です。一昨年の西日本豪雨、そして昨年の東日本の災害などで、ダムの緊急放流の問題がクローズアップされるようになりました。
このごろはゲリラ豪雨、同時多発豪雨などとも呼ばれ、ダムによっては満水に近づくスピードが想定外になっているのでしょうか。ダム湖が満杯に近づいていくと、堰堤(えんてい)が損壊することを避けるため、ダムは異常洪水時防災操作という放流を行います。緊急放流と呼ばれています。
この操作により、貯水池に入ってくる雨量はそのまま放流されることになり、治水ダムとしての機能を発揮しなくなってしまいます。西日本豪雨においては肱川の鹿野ダム、野村ダムの2ダムが緊急放流を行い、下流では増水となって逃げ遅れた人々が水死しました。全国津々浦々、巨大ダムの下流で暮らす人々は随分心配したことと思います。
政府は昨年、全国のダムがもっと治水機能を発揮できるよう、豪雨になる前の事前放流を奨励する策に転じました。もし水道などの利水分を流し過ぎてしまった場合は、国が弁償するとしています。
これまで治水、利水の両面で長所が喧伝(けんでん)されてきましたが、多目的ダムの神話は揺らいでいるのでしょうか。
紀の川(吉野川)水系においても本年1月、国土交通省の近畿地方整備局で関連の会議が開かれました。上流の奈良県、下流の和歌山県の双方から職員が出席しています。そこで私は、両県の情報公開条例に基づき、会議出席者による復命書を開示請求しました。
それによると、大滝ダムは、当初に告示された洪水調節のための放流を十分に行っていないことが分かりました。なぜでしょう。ダムの下流において、いまだに堤防が整備されていない区域があるのです。無堤地区と呼ばれています。
このように、大滝ダムが本来の治水機能を十分に発揮していないことに対し、和歌山県の職員が国に対し抗議している場面が、復命書から見つかりました。誰が作成したと思いますか?実は、奈良県水道局の職員が記録し、保管していました。
国に抗議した当の和歌山県は「文書不存在」なのです。出席した同県河川課の職員に尋ねてみますと、会議の当日、事前放流をテーマに近畿地方整備局の管内河川の全体会議のようなものがあって、終了後、「紀の川水系の関係者の方、残ってください」と言われ、具体的な事前放流について説明があった。それであのような発言がなされたが、これは正規の会議だとは思わず、記録を残さなかったそうです。
ここに情報公開制度の持つ特徴を垣間見ることができます。ときの権力にとって都合の良いことも、悪いことも出てくる。
ダムの予算は、とかく青天井などと呼ばれ、大滝ダムは半世紀の歳月のうちに3640億円の巨費を投じて完工します。しかし、下流にはいまだに堤防が整備されていない地区が残っているのですね。ダムは完成したけれど、何か順序が逆のように思います。
奈良県は国に抗議しないのでしょうか。ダムの下流は和歌山だけではない。吉野町、下市町、五條市など奈良県にも該当する流域があります。
いま計画が進める県水一体化の安定的水源というのは、大滝ダムの一面でしかありません。
私は80年代の後半、奈良新聞の新人記者として紀伊半島東部の山岳地帯の9カ町村を5年間担当しました。これら自治体の一つが川上村であり、大滝ダムの本体がいよいよ着工かという時期でした。初任地の5年間なので、心身に染み付いた何かが尾を引いていて、第二のふるさとのように思います。いまも吉野びいきです。
大滝ダムは完成寸前とされた2003年、貯水を開始すると地滑りを引き起こし、37世帯の白屋地区の人々がふるさとを追われて集落は廃虚になりました。このため国は地滑り対策工事をやり直し、巨大な杭をたくさん打ち込み、地下水を抜き、護岸を補強するなどの大掛かりな工事のため、完成は10年先になりました。
国が威信をかけた直轄のダムとしては珍しい失敗であり、これを記録しようと思い立ち、2年ほど取り組みまして、私のルポは本になりました。着工から完成までの半世紀を取材し、取り上げています(「ダムと民の五十年抗争~紀ノ川源流村取材記」2017年)。
「もうダムのことは話したくない」と、よく取材を断られました。そんなことは何の苦労もありません。「話したくない」という村人の心情は一件、一件、それも事実であって、意味をなしていきます。
ダムの計画が浮上したころ、それこそ村を挙げて反対運動が繰り広げられましたが、いまでは大滝ダムとの共存を村是として「水源の村」を標榜している。こうした村政のアピールとは裏腹に、村民感情は複雑なものがある。なぜ話したくないのか。その空白を埋めていく取材でもありました。
大いに弱ったのは、出来上がった原稿を印刷してくれる出版社がなかなか見つからなかったことです。知り合いの編集者2人にも掛け合ったのですが「脱ダム時代は終わった」と口々に断られました。
ようやく知人(季刊「大阪春秋」編集委員)の助力を得て、名古屋の風媒社という出版社が版元を引き受けてくれることになりました。大滝ダム建設のまことしやかな理由として、伊勢湾台風(1959年)クラスの豪雨に耐えうると喧伝されてきたわけですが、伊勢湾という名が物語るように、愛知県の皆さんにとっても、この激甚災害の記憶は染み付いていることでしょう。現代においても長良川河口堰(ぜき)や徳山ダムなど、東海地方の人々は水にまつわる巨大開発の矛盾に向き合ってきたと思います。
取材に協力してくれた村民らの親切が無駄にならず、刊行されて本当にありがたかったです。
大滝ダムの地滑りは、本体に着工する20年近くも前の1974年に警告されていました。白屋地区の要請を受けて、公害などが専門の吉岡金市博士(元金沢経済大学学長)が現地入りして綿密な調査をしています。民家12軒および寺の柱がいずれも南の方角に傾いており、敷居の下がり方が著しい家もあった。修理をしても10年ほどしたらまた傾いてしまうとの証言も得られた。ダムがこのまま水を貯めれば地滑りは拡大し、白屋地区は安全な所に移転するよりほかはないと吉岡先生は警告したのでした。
誰も耳を傾けなかった。建設省は一応の対策工事をしているが、浅い地滑りしか想定していない。
大滝ダムの建設事務所は吉野町河原屋というところにありました。吉岡博士の警告から6年、今度は工事の担当者である調査設計第二課長の板垣治さんが1980年、論文の中で、現場の職員らが地滑り対策にいかに苦慮しているかを明らかにします。破砕帯地滑り地と呼ばれる川上村のダム計画地周辺において、洪水調節のために貯水位を上げ下げすることが地盤にどう影響するか、体系付けられた文献などほとんどなかったそうです。
コミュニティーに亀裂
それでもダム本体の工事は着々と進められていきます。果たして2003年、ダムが貯水を開始すると、白屋地区の家々の壁や道路に亀裂が走ります。人々は3年数カ月もの間、狭い仮設住宅の中で暮らしました。
ふるさと白屋には戻ることができません。われわれの誇りを取り戻そうではないかと、仮設から橿原市内に移転した旧村民たちは国を相手取り裁判を起こします。裁判というのは、日本の社会においては、世間から特別視されるものなのか、知り合いにからかわれた人もいました。
「立ち退きの補償金もらってるのに、またゼニカネ取りにいくんかよお」。冗談とは分かっているが、こたえたと、原告の一人は言います。
白屋は地滑りでしたが、村の幹線沿いでは「水没御殿」などと、特殊なものを見るような目線で都市部の人から言われた家々もあります。
旧村民は勝訴しました。国が安全対策を怠ったことを奈良地裁が認定し、国は控訴したが、大阪高裁は地裁の判決を支持します。さらに一審が退けていた旧村民の苦痛に高裁は配慮し、1人100万円の賠償金が支払われています。
しかし、勝った人々に笑顔はありません。地滑りに遭い、みんなでどこに移転しようかと、仮設住宅で話し合っているうちに仲違いが生じ、区は分裂してしまいます。
近畿地方整備局は、村内に37世帯がまとまって移転できる土地はないと、全戸そろっての移転を拒みました。
村に残ることを決めた12世帯は、大滝ダムの骨材プラントの跡地に移転し、固まって暮らしています。大きなダムは原石山を確保し、地元でコンクリートを生産するので、その跡地に当たります。
13世帯は橿原市石川町に集団移転しました。ほかに大淀町内、橿原市内などに単独で移転したのが数世帯、後の世帯は、大阪などにいる子どもたちのところに引き取られていきました。
古いいわれのある白屋地区の八幡神社は、この橿原市石川町に移転しましたが、川上村に残る12世帯は一度も参拝に来ないと聞きます。いまは道路事情が良くなって、買い物や通院などで村民は橿原市によく来るのですが、お宮さんは仲違いした一派の土地に移転したので、お参りするのは気が引けるようです。断絶の深さがうかがえます。
私は2017年にも、川上村の丹生川上神社の春・秋の例大祭において、1日に2度、神主が神事を司っているという話を聞きました。水没した迫(さこ)地区の事例です。ダムの補償などを巡って、ここも地域が分裂してしまい、2つの派はそれぞれ異なる村内の造成地で暮らしています。お祭りの日は顔を合わせないように、神主に頼んで1日に2度、神事を行っているのだそうです。
防災のダムのはずが、図らずも、地域の絆という防災の根幹を揺るがしてしまいました。
大滝ダムの湖岸は、いまも地滑り対策の工事が続いています。
半世紀掛かりダムが2013年、ようやく完成し、やれやれ工事車両の往来もなくなると、村民は胸をなで下ろしていました。ところが先般、ダムの付け替え国道の高原トンネル周辺で、またもや地滑り対策工事が始まったのです。トンネル構内で亀裂が見つかり、地滑りの再発が心配されています。
試験貯水以来、白屋地区をはじめ、大滝地区、迫地区に続く工事となり、これら地滑り対策工で地中に打ち込むアンカーなどの類いは、これで1276本となります。長いもので1本が80メートルにおよぶ大規模な工事です。不経済なダムですね。静かな村に再び、工事車両が往来するようになりました。
巨大ダムのキーワードは、生態系の脅威という捉え方がありますが、まず「国家対個人」の問題から始まると思います。
県域水道一体化の水源という役割は、ダムの一面に過ぎません。いつの日かダムを撤去し、清流が戻ってくることを住民が考える自由はないのでしょうか。
終わりに~カウンター・デモクラシーとしての市民水源を探る
水道創設時代の遺産、赤れんがの奈良市旧水道施設。県の水道事業より45年早い歴史がある=2020年11月27日、同市川上町
講演終了の時間が近づいてきました。
遠い将来にまで依存することになる巨大ダム、全廃に追い込まれる奈良盆地市町村の地下水。それぞれの水源の長短が県民に知らされないまま、水道一体化の計画は進んでいきます。
1票差でも勝ちは勝ち…という選挙独裁という言葉に触れました。しかし何事も白紙委任ではありませんよね。私たちの社会には、選挙による代表エリートのデモクラシーだけでなく、市民によるもう一つの回路があると篠原一(政治学)は言います。
地域社会の身近な水源について、カウンター・デモクラシーのツールとして、考えてみたいと思います。
奈良市は7年前、ならまち、きたまちの井戸利用の実態について調査をしたことがあります。開始した当時、新聞にも出ていましたが、その後、調査の目的である観光利用は見送ったということです。今、進行している県域水道一体化の動きを踏まえ、地下水の特質などを探る上で何かの参考にならないものかと思いまして、市の情報公開条例に基づき、あらためて調査の全容を開示請求しました。
とても感銘を受けました。観光地のならまち(近鉄奈良駅南側)、きたまち(同駅北側、京街道かいわいなど)において、井戸があると確認された家が少なくとも384世帯あり、うち200世帯は庭木の散水などに利用されている。そして14世帯は飲料水にも使っているということでした。
調査は、約6000世帯を対象に行い、904世帯が回答用紙に記入して返送しています。井戸があると回答した384世帯のうち8割近くが「井戸の水が枯れることはないと」と答えています。
何代か前の市長が「奈良盆地にはクジラの泳げる地下湖がある」と豪語し、地下水開発に意欲を示していたことを思い起こします。
この井戸の調査ですが、さすがに古い町で、江戸時代からあると伝わる古井戸が点在しています。素晴らしいことに、平成に入ってから新たに井戸を掘削して利用している家が2軒あるのです。
これこそ、国家主導の巨大ダムに対抗する水源のカウンター・デモクラシーとしての可能性を秘めているでしょう。
県水一体化の掛け声の下、自前の地下水浄水場を廃止して、ダムの県営水道100%に切り替える市町村がいま続出しているだけに、井戸の調査をしみじみ感慨深く読ませてもらいました。
市の危機管理課によると「災害時の生活用水協力井戸」の制度に市内の約250世帯が登録しているそうです。市民が持っている自前の水源が防災に一役買っているのですね。こんな調査が奈良盆地一帯で実現したら良いと願っています。
県庁の権力を、そう簡単に改めさせるほどの力は持ち合わせていませんが、これからも足元の大和川水系において地域資源を生かした治水、利水を探りたいと思います。足元を見つめずに一体化の水源地、紀の川(吉野川)流域のことをとやかく言っても始まらないと思うのです。
振り返れば、ダムのない江戸時代において、雨が少なければ少ないなりに奈良盆地の季候に適した大和木綿の栽培が一世を風靡(ふうび)したことがあります。特に盛んだった大和高田市では、田地でも綿を育て、水不足による稲作減産を克服したそうです。
本日は、橿原市内の会場で開かれました。先ごろ、今井町(同市内)の散策会でガイドを務めたのですが、市の教育委員会が復元した環濠の一部を、20人ほどに紹介しました。一見、どぶ川のような、飾り気のない姿に整備しているのですが、生物多様性に配慮してのことでしょう。「子どものとき見た小川みたい」と年輩のご婦人が声を弾ませていました。
さて、どこから引水して復元したのでしょうか。飛鳥川かな?とも思いました。正解は地下水です。橿原市は県営水道100%を選択し、大滝ダムを主水源とする紀の川の水が御所の浄水場からここまで運ばれています。まちづくりにおいて地下水という地域資源の力を借りているのですね。
ご清聴ありがとうございました。
追記
時間がなくなってしまったので割愛したが、ならまちの井戸と並ぶ市民水源として、家庭でできる雨水リサイクルの話をする予定でした。貯めた雨水を洗車や庭木の散水に再利用でき、初期費用を掛ければトイレの水洗につなぐこともできる。自分たちの考えとは異なる企業団から巨大ダムの水が来ても、天水の力を借りて節約という抵抗ができるのですね。普及すれば、治水の効果も出てくる。小さな小さな多目的ダム。市民による市民のための水源と言えるでしょう。大和川水系においては大和郡山市が最初に助成の策を講じています。 関連記事へ