街角から)遣唐使の吉備真備しのび没後1250年法要 奈良市高畑町の古寺で盛大に
吉備真備の没後1250年の法要で天平人の装束をまとい通りを歩く人たち。行事を盛り上げた=2025年10月4日、奈良市高畑町、浅野詠子撮影
奈良時代に遣唐使として活躍した吉備真備の没後1250年法要が10月4日、奈良市高畑町の閼伽井庵(あかいあん、森田康友住職)で営まれた。生涯に2度の入唐を果たし、文化先端の国から文物や暦学を持ち帰った真備。その遺徳を多くの参拝者がしのんだ。
高畑町は、遣唐使たちが渡航の安全を祈ったご神体、春日山が間近にある。普段は土塀が連なる静かな町の通りを、華やかな天平人の装束をまとった男女がにぎにぎしく歩いて行事を盛り上げた。
閼伽井庵の位置は、天平時代に大伽藍を誇った新薬師寺の旧境内に当たる。真備の墓と伝えられる吉備塚古墳(奈良教育大学構内)はかつて、閼伽井庵の敷地の一角にあった。寺は安政の大地震で建物が倒壊したが、明治期に復興した。
屋外で予定されていた行事は雨天のため同大学付属小学校体育館で催された。南都楽所の雅楽演奏に合わせ、中学2年男子生徒らが古式ゆかしい舞を演じた。国会議員からは「日中友好に資する」旨の祝電が寄せられた。
森田住職は行事の締めくくりにあいさつ。5年前、「あと5年たつと大事な節目の年になるのか」と、ふと気付き、以来、その日に向かって、協力者と準備を進めてきたといい、「本日は盛大に厳粛に1250年遠忌法要を行うことができ、ありがたく、うれしいことです」と述べた。
舞楽を鑑賞した人たちは帰路、吉備塚古墳に立ち寄り、中には手を合せる人もいた。同大学が2002年に行った古墳の発掘調査では貴重な副葬品が発見されたが、5世紀後半から6世紀初頭の古墳と判明。真備が没した775年よりかなり前のものだった。一方、未調査の古墳南面は奈良時代のものと目され、真備その人の墓である可能性は残されている。
明治時代になると、古墳の辺り一帯に旧陸軍が駐屯地を構えた。吉備塚古墳の発掘調査に携わった研究者によると、当時、古墳の解体計画が浮上したが、奇怪な事件が続き、取りやめになったという伝説がある。
真備は陰陽道の始祖とされる。この研究者によると、奈良市陰陽町に真備の子孫を名乗る陰陽師が住んでいて、戦後のある時期まで、真備の命日には欠かさず吉備塚古墳に墓参に訪れていたという。
吉備塚古墳を見学する法要の参加者。きりりとした表情の真備のイラストが描かれたのぼり旗が立っていた=2025年10月4日、奈良市高畑町の奈良教育大学、浅野詠子撮影
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