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発行者/奈良県大和郡山市・浅野善一

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ジャーナリスト浅野詠子

記者講演録)「水道のふるさと昔と今」

洞集落の人々が利用していた共同の井戸。今も水が湧いている=2022年12月、奈良県橿原市内

洞集落の人々が利用していた共同の井戸。今も水が湧いている=2022年12月、奈良県橿原市内

 【本稿は、奈良県の水道水源、大滝ダムの実相について「奈良の声」や著書で伝えてきた浅野詠子が2022年7月25日、大阪市北区民センターで開催の「世直し研究会」例会で「紀の川源流・大滝ダム地滑りで消えた集落の闘い~水道のふるさと昔と今」の演題で講演した際の内容を修正し、要点を再構成したものです】

立ち退き奈良県内三つの事例

 この100年の奈良県におきまして、実にさまざまな立ち退きがありました。

 橿原市では被差別部落、洞集落の立ち退きから100年という節目におきまして、2020年の3月、ちょうど、この会場において、そして本日と同じ主催者の「世直し研究会」さんの企画によって三宅法雄さんが詳細な研究内容を発表しました。

 神武天皇陵を見下すのは恐れ多いなどの理由で208世帯の1054人もが、治水面などの生活条件の悪い土地に立ち退かざるを得なかったそうです。「自主的な退去だった」という説が人権論の有力な書き手から発信されているそうですが、これに対し三宅さんはさまざまな資料を駆使し、いろいろな人々から聞き取りもして、強いられた立ち退きであることを追及しています。

 洞集落のれんが造りの共同井戸が、県教育委員会の近代化遺産悉皆(しっかい)調査リストに搭載されたのは2014年度のことでした。ほんの1行の記事ですが、大正6(1917)年以前に作られ、飲料水の横井戸であると記載されています。この近代化遺産調査は、市町村教委など地元の文化財担当者がまず候補を挙げるところから始まり、この井戸の価値を熟知しておられたことに改めて感銘を受けております。

 この現代においても先ごろ、理不尽な立ち退きを私は目の当たりにしました。奈良市の大宮通り沿いの平城宮跡朱雀門前の一角に、正倉院に似せた大型の観光施設「歴史体験学習館」を県が建設するために、お年寄りの多い30世帯ほどが、住み慣れた土地からの立ち退きを余儀なくされたのでした。ニュース「奈良の声」がいち早く報じていますが、人々はひっそりと出ていかれた感があります。

 事業好きな荒井正吾知事が就任すると、箱モノ建設目白推しといった感がありますが、この施設もそうした一環です。知事の描いた通りに進めるという県政なのでしょうが、立ち退いた小さな地域にも、静かな暮らしがありました。

 洞集落の移転にまつわる三宅さんの研究発表を巡っては、ニュース「奈良の声」で報じたところ、これまでに1万3000件余りのアクセスがありました。これからも末永く、人権、まちづくりの学びとして語り継がれていくことでしょう。三宅さんの今後の研究が期待されます。

 さて、正倉院ふうの箱モノ建設による立ち退き。本物の見事な校倉(あぜくら)の正倉院が現存するのに、わざわざ目抜き通りに、それふうの建物を造ろうという訳ですから、一人の知事の思い入れの強い公費投入の在り方として、伝え方によっては今後も県民の関心を集めることができると思います。

正倉院に似せた県発注の箱モノ建設のため立ち退きとなり、取り壊される家屋=2022年6月、奈良市二条大路南3丁目

正倉院に似せた県発注の箱モノ建設のため立ち退きとなり、取り壊される家屋=2022年6月、奈良市二条大路南3丁目

 ですが、同じ立ち退きでも、いま奈良県庁主導で進もうとしている県域水道一体化の主要水源となる大滝ダムについては、水没や地滑りなどで500世帯ほどが立ち退いたのですが、県民の関心は少しも集まりません。

 よくぞ、本日は「世直し研究会」の皆さま、水道のふるさとの話に耳を傾ける機会をつくってくださいました。紀の川上流、吉野川に戦後、相次いで建設された巨大ダムによって立ち退いた多くの人々、消滅した歴史ある集落の数々については、奈良盆地において、同情や哀切をもって語られることはほとんどありません。

 奈良盆地の人々が冷淡であるとかいう意味では決してないのです。大事な背景として気候、地理、地形、そして歴史があると思います。雨の少ない季候である奈良盆地の人々は、昔から日照り続きの農業と格闘してきました。威勢良く流れる紀の川上流の吉野川の水は、五條市を過ぎると無慈悲にも和歌山の方に流れ去っていきます。

吉野川分水への礼賛、忘れられた水源地

 その豊かな水を何とか奈良盆地に引き入れたいと、人々は昔から「吉野川分水」を構想してきました。しかし和歌山側に幾度も拒絶されてしまいます。怨嗟(えんさ)の長い歴史を宿していると思います。下流は強いですね。ダム建設も随分と理不尽なところがあるけれど、慣行水利権というのもどこか閉鎖的な気もします。

 戦後、国が、奈良県と和歌山県との間の仲立ちをして、紀の川の上流に幾つかのダムを造る条件が整い、ようやく分水が実現します。奈良県当局などは「300年の悲願成就」と言ってはばかりません。御所の庄屋、高橋佐助が元禄期に分水を着想したので、そうした歳月をもって語られているのです。

 奈良県は戦後、一貫して、国家のダムを肯定、礼賛する知事が選ばれてきました。ダムで辛酸をなめたはずの当事者の村役場にしても、現在は「水源の村」を標榜(ひょうぼう)しています。村人が激しくダムに反対した昔もあったのだけれど、今日の村政は、国とも県ともすっかり打ち解けています。そこに至るまでの長い葛藤があったことは知られていません。

 荒井正吾知事の号令で進められている県域水道一体化構想の主要な水源が、この大滝ダムです。知事が特段の逡巡(しゅんじゅん)もなく、28市町村にわたる水道の直営を一気にやめさせることを思いつき、県営水道と統合させようとするのは、実は、日照りに苦しんだ本県の歴史がそうさせているのではないのか、と思うときがあります。「水を自由に使いたい」という先祖の願いが連綿と語り伝えられてきたからでしょうか。

 しかしながら、奈良県政にはやはり、欠落している視点がありました。それを申し上げなければなりません。すなわち、ダムの築造によって迷惑を被った村々、巨大な構造物と向き合わざるを得なかった人々の半世紀に対し、地方政治は、思いが至らなかったことです。

 その証拠に、奈良県庁が編さんした分厚い「吉野川分水史」という文献は、少雨気候による厳しい農業を克服した己の事業の功績は延々とつづられていますが、ダムで苦しんだ村民へのまなざしが少しも立ち上ってこないのです。

 村長、住川逸郎は激怒しました。「一言でいいのです。水没した人びとには、とくに迷惑をかけたというねぎらいと感謝の言葉があれば、この記録はもう少し読む人の心を打つはずです」(「大迫ダム史」から)

 法令に基づき、きちんと補償しているのだから謝辞など必要ない―。国と同様にそう考えていたのであれば、県政とは一体何でしょうか。

大滝ダムが侵食する市町村の自己水源

大滝ダム地滑りで廃虚になった集落。元屋敷の石垣、ちょうず鉢が生々しく残っていた=2015年4月、川上村白屋

大滝ダム地滑りで廃虚になった集落。元屋敷の石垣、ちょうず鉢が生々しく残っていた=2015年4月、川上村白屋

 私は2017年、大滝ダムをテーマに「ダムと民(たみ)の五十年抗争~紀ノ川源流村取材記」(風媒社)という本を書きました。着工から完成まで50年の歳月をかけた特異な公共工事です。国家の威信をかけたダムですが、完成直前に地滑りを引き起こし、37世帯の集落が立ち退くという事態に見舞われます。私は新人記者の頃、紀伊半島の東部山岳地帯の9町村を担当しました。大滝ダムに翻弄された川上村も担当したエリアです。退社しフリーになって再取材する上で土地勘も十分残っていたし、誰にも渡したくないテーマでした。

 「ダムのことはもう話したくない」と次々と取材を断られました。本日、冒頭に申し上げましたように、村政は今「水源の村」を高らかに掲げています。これから水道広域化の重要水源になっていくので、いっそう真実味のある言葉でしょう。しかし村民、旧村民は「話したくない」と言う。その落差は何だろうと考えてきました。人々が飲み込んでしまう事情があるはずです。

 ライターですから、取材を断られるなんて当たり前の日常茶飯。断られた一件、一件の数だって、ある意味、回答の一種として記録のうちに入ります。ですが、一番、困ったことは、せっかく原稿が形を成してきても、印刷してくれる出版社が一向に現れなかったことです。いったい何社に原稿を送って断られたことか。過去の私の著書を担当してくれた編集者にも頼んでみましたが「脱ダム時代は終わった」と剣もほろろに断られてしまいました。

 しばらく途方に暮れましたが、ある考古学者の助力を得まして、名古屋の風媒社という出版社が刊行してくれることになったのです。大滝ダムは伊勢湾台風をきっかけに築造された治水主目的ダムですが、愛知県は最も大きな被害を受けました。風媒社は地方出版の先駆けともいわれ、創業者の故・稲垣喜代志さんの言葉が朝日新聞1面コラム「折々のことば」(2019年2月19日付)の中で取り上げられたこともあります。

 「ものわかりのよさ」こそ、私たちが駆逐しなければならない最大の敵である―。稲垣さんは魅力ある言葉を放っていました。

 本書の主な舞台は、地滑りで消滅した川上村白屋地区です。国相手の裁判を懸命に闘った人々がいました。奈良県の住民運動史を刻む取り組みだったと思います。学者たちの良心も、運動の心棒になりました。地盤工学を専門にする高田直俊・大阪公立大学名誉教授らが意見書を書いて、奈良地裁が「信用できる」と採用し、2審大阪高裁での勝訴確定へと導いていきます。

 学術論文と異なり、読んで面白かったのは、「勝つ」ために書かれた文章だからだったと思います。あれはダム本体のコンクリート打設から2年が過ぎた1998年のことです。裁判の争点にもなった深度70メートル地点の地質課題に関することですが、当時、調査を請け負っていた日本工営の報告書に書かれていたことを、奥西一夫・京都大学名誉教授(地形土壌災害)が突き止め、意見書の中で取り上げています。

 国は、もっと浅い地点での地滑りを想定して対策工事を行っていのたで「近畿地建、進退極まった」と奥西さんは断じています。結局、日本工営の報告書は採用されず、新たにコンサルタント業務を受注した別の社が国に都合の良い調査報告を書き上げてしまう事態を、奥西さんは追及します。社会派ドラマを見ているようですね。

 大阪高裁が「国は安全対策を怠った」と認定し、元住民たちは勝訴しました。ですが原告の人々に笑顔はありません。地滑りが発生してから村内の仮設住宅で3年間ほど暮らすうちに、移転先の候補地などを巡って意見の対立が顕著になり、深刻な仲たがいが生じてしまいます。大滝ダムによる別の水没地においても、補償交渉などの過程で分裂した地域がありました。

 洪水対策という防災を掲げて建設したダムですが、防災の要である地域のコミュニティーに亀裂ができてしまったのです。

 ダム湖岸にできた新しい国道沿いに、水没の補償で建った新築が並べば「水没御殿」などと陰口を言われることもありました。理不尽な地滑り事故で郷里を追われ、国相手に裁判を起こしたばかりに「補償のカネが入るのに、またゼニカネ取りいくのか」とからかわれた人もいました。言った本人は軽い冗談のつもりだったのですが、言われた方はこたえたそうです。

 枝葉末節かもしれないいろいろな聞き取りをしまして「そんなことを書いてどうするのか」と私もいぶかしがられました。

 先ほど、大滝ダムの建設は伊勢湾台風がきっかけと申し上げました。紀伊半島の潮岬の西15キロの地点に上陸したのが1959年の9月26日。戦後の台風としては最大の被害をもたらし、これを契機に国は洪水調節のダム建設に向かって奔走します。150年に一度の豪雨災害に耐えられるよう想定した巨大な貯水容量を誇り、半世紀の歳月をかけて2013年、奈良県川上村に完成しました。

 この計画に奈良県も乗っかり、多額な負担金を支払ってダムの使用権として毎秒3.5トンの水利権を確保しています。高度経済成長期の水需要予測が基礎になっており、今日の人口減少期に入ってくると、大滝ダムを主水源とする県営水道の稼働率の低さが課題として指摘されるようになりました。

 折しも、県内中部の小規模市町村の水道経営が苦しくなっていき、県は盛んに水源転換を促すようになります。これにより、地下水などの自前の浄水場を廃止して、県営水道の受水100%に切り替える市町村が続出しました。

 2019年には水道法が改正され、水道広域化の推進が奨励されます。荒井県政は、国が奨励する広域化の補助金を効果的に得ようと躍起になり、また、スケールメリットから、健全に経営をしている県北部の市営浄水場をつぶして県域水道一体化構想を進めようと躍起になりました。

 大滝ダムの巨大な貯水湖は、歴史ある集落を沈めるだけでは飽き足らず、奈良盆地で平和に静かに営んでいる市町村営の浄水場まで侵食していくのです。それでいて紀の川の下流部にはいまだ堤防が未整備の地点があり、和歌山、奈良の両県民に国が約束した「伊勢湾台風クラスが再来してもびくともしない」150年確率の運転はまだできていません。

 異常気象が問題になる今日、巨大ダムに寄りかかった洪水対策、水道施策に無批判であることは時代遅れだと思います。私たちの足元の大和川流域の地域資源をまず大切にしながら、みんなで水源を涵養(かんよう)し、暮らしに身近なところから治水、利水を探っていきたいですね。江戸期築造のため池を浄水場につなぎ、奈良県一安い水道を営む葛城市の取り組みが参考になります。

 私は日ごろ、奈良盆地の市町村がくみ上げる地下水の水道がおいしいと感じています。成分とか浄水場の努力にもよるのでしょうが、それが理由とは思えません。山村に迷惑をかけない、ダムだけに頼らない理想の水道自治が運んでくる水と知って飲むからおいしいのだと思います。

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